継体天皇の考察①(三王朝交代説)
継体天皇についてはすでにブログで書いたのですが、それを少し編集しながらこちらでも発信してみたいと思います。8回シリーズになります。
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日本書紀・古事記はともに、神倭磐余彦尊が日向より東征し、大和の磐余の地で初代天皇として即位して以来、我が国の天皇家は紆余曲折を経ながらも血統が断絶することなく続いているという建て付けで記述されています。戦後、江上波夫氏が騎馬民族征服説でこの万世一系の天皇観に風穴を開けて以来、古代日本国家の成立過程を明らかにしようとする様々な考えが出されるようになりました。
その中でも水野祐氏による三王朝交代説は今なお大きな影響力を持っているようです。4世紀代の三輪山麓一帯を中心に栄えた崇神天皇から仲哀天皇までの5代の天皇による政権を古王朝とし、次に主に河内を中心に栄えた5世紀代の応神天皇から武烈天皇までの11代の天皇による政権を中王朝、そして6世紀初めの継体天皇以降の政権を新王朝として、4世紀から6世紀にかけて3つの王朝が交替したとする考えです。古王朝を三輪王朝、中王朝を河内王朝、あるいはそれぞれを三輪王権、河内王権と呼ぶこともあります。
ちなみに、私は初代神武天皇からから第9代開化天皇までを神武王朝、第10代崇神天皇から第14代仲哀天皇までを崇神王朝、第15代応神天皇から第25代武烈天応までを応神王朝として、神武王朝は南九州の狗奴国から出た王朝、崇神王朝を邪馬台国あるいは邪馬台国を盟主とする倭国、応神王朝は丹後・近江勢力が邪馬台国を倒して成立した王朝、と考えています。(私以外にこのように考える人を見たことがないので、いわゆるトンデモ説の類になるのかもわかりません。)
水野祐氏の三王朝交代説は、仲哀天皇から応神天皇へ、武烈天皇から継体天皇へ、というふたつの皇位継承のタイミングにおいて血統の断絶があるということを説いているのですが、天皇家の血統が断絶することなく続いていることを記しているはずの記紀を順に読み進めていくと、たしかにこれらの皇位継承のタイミングにおいては血統の断絶を想像しうる状況が描かれています。
たとえば日本書紀には、第14代仲哀天皇は熊襲の反乱を抑えようと筑紫の香椎宮にいるとき、同行していた神功皇后によって発せられた「新羅を討て」との神託に背いて熊襲を討とうとしたが失敗し、その直後に病で亡くなった、と書いています。古事記では、その神託のシーンで天皇は琴を弾きながら息が絶えたとあります。天皇と皇后のほか、ただひとり武内宿禰のみが同席していたとするその場面はいかにも天皇殺害を想像させる描き方です。
そして天皇崩御の後、神功皇后は朝鮮半島出兵を成功させて帰国し、のちに応神天皇となる誉田別皇子を出産しました。さらに皇后は武内宿禰とのコンビで、皇位継承権をもつ香坂王・忍熊王の兄弟を倒し、応神天皇の即位を実現させたのです。この応神天皇は仲哀天皇の子ではなく、神功皇后と武内宿禰の間にできた子ではないかという考えがあります。
また、記紀はともに第25代武烈天皇が崩御した際に皇位を継承すべき皇子がひとりもいなかったことを記しています。武烈天皇に先立つ第21代雄略天皇が我が子を除く皇位継承権を持つ皇子をことごとく殺害してしまい、さらにその雄略の子が即位した第22代清寧天皇は后妃を持たずに崩御したために跡継ぎとなる直系皇子がいませんでした。かろうじて傍系となる第18代履中天皇の孫である顕宗天皇、仁賢天皇が第23代、第24代と順に即位したものの、仁賢の皇子は武烈ひとりのみで、顕宗には皇子がいませんでした。これらの結果として武烈のあとに皇位を継承すべき者が不在となったのです。
そこで政権内から推挙の声があがったのが、近江あるいは越前にいたとされる第15代応神天皇の五世孫にあたる継体でした。第16代仁徳天皇以来、第25代武烈天皇までは少なくとも仁徳の系譜にある皇子が皇位を繋いできたのですが、ここにきてその系譜を離れたうえで、さらには五世代も飛ばした継体がいきなり推挙されることとなりました。しかし彼は第26代継体天皇として即位した後も宮を転々としてなかなか大和に入れなかったというのです。
仲哀天皇崩御から応神天皇即位までの記紀の記述はまさに神功皇后と武内宿禰によるクーデターによって皇統が断絶した匂いがプンプンします。とくに古事記はそうとしか読めない描写になっています。一方の継体天皇即位の場面は、少なくとも記録上は傍系の五世孫という、わずかながらも細い糸でつながっていることから必ずしも皇統断絶とまでは言えないまでも、少なくとも政権が変わったと言ってもいい状況でしょう。
このように記紀を素直に読み進めると、水野氏の説いた三王朝交代説はそれなりに頷ける考え方であると言えます。私は、少なくとも崇神から仲哀に至る王朝(崇神王朝)と応神から武烈に至る王朝(応神王朝)は別の王朝として捉えるのがよいと考えています。そして、継体天皇あるいは継体王朝について、このあと考えていきたいと思います。