人の生きるための力を奪ってないかな・・・?
ちょっと観点が違うのかもしれないけど、この方の文章を読んで、考えたことがある。いやいや、昔からの課題だったともいえる。
私は、共感能力がかなり強めだし、ついつい人に同情してしまうこともある。すべては努力だ!と言いながら、環境の力も大きいもので、ついつい人のことを理解しようと努めてしまうことがある。いや、理解することで、自分が感情的に整理できる方に向くのなら、それは構わない。私の問題であるから。
ただ、自分が怒るべきときに怒らないというのはよくないと思う。相手がどういう境遇であっても、仮に自分がどんな境遇であっても、精一杯生きていて、それで、自分の足りないところやできていないところを研鑽していかなければならない。お金を稼ぐ、ということにおいても同様に。
もちろん、社会福祉で補わなければならないこともある。でも、自分の境遇が誰かの境遇より劣って(この表現だって、何をもって表すのか明確ではない。)いるから、もっと良い境遇の人から、正統でないやり方で何か利益を奪ってよいわけではない。
私は教育の世界で生きてきた。意外や意外?それともみんながそう思っているのかもしれないけれど、教育の世界は、決して平等ではない。社会を反映する鏡である面もある。おそらくは高校から大学に掛けて、社会の構造や、仕組みを嫌でも考えさせられるきっかけになるのではないかとさえ思わされる。大学受験での、まあ、結果だけを見るならば、親の経済力や受けてきた教育が、思い切り影響する。可愛い生徒たちにそんな思いをさせたくないと思っても、現実と対面させられる時期でもある。
ただ、その、格差を、自分に有利に働かせることもできる。それを悟ることができるかどうかが、それからの人生を形成していく姿勢になるのではないかと思う。苦労した分、それを乗り越えた人間は、当然のごとく、ほかの人間よりも力をもつことになる。
でも、自分の不幸を、誰かのせいにして、あるいは、不幸のせいで、○○、だから、努力しなくていい、周りに少し甘えてもいい、というのとは違う。
それぞれの生を一生懸命まっとうすることに、その人の人生がある。それは、学校なんかで測れるほど安易なものではないと思う。
最近、自分は、○○だから、○○していい、と思っているのかな?と思われる人に、続けて何人か出会った。というか、以前から出会っていたけれど、その発想に気づいた。
たぶん、違うと思う。自分の人生は自分で責任を取り続けなければならない。もちろん、法によらなければ解決しないことも、社会福祉で補完しなければならないこともあるのはわかっている。
でも、うちは○○できない、ということを、他人にしわ寄せするのは違う。うちは○○だったから、恵まれた人を羨ましがって、そうして、嫌な思いさせてもいい、というのも違うと思う。
ときとして、あれこれ、その環境に合わせて、優しくしてしまいそうになるとき、私は、自分と闘いながら、それぞれの自分の生を生きる力を全うさせられているか、もしかしたら、自分が優しくすることで、誰かが一生懸命生きる力を奪っていないか、と自問自答してしまう。
私にだって、甘えていた時期があった。あるとき、ふと自分の状態が、いったい周りの人の何に関わっているのか?と思ったとき、不足や不満を言うのをやめた。自分が選んだ、あるいは、自分が与えられた人生を、自分の力で全うしたくなった。人には関係ない。
とはいえ、助け合わなくていい、というのとは違う。人が助け合ったり、人を大切にするのは大事なことだし、素敵なことだ。ただ、むやみに甘えさえることは(自戒の意味を込めて。)、人の人生に土足で踏み込むのと同じことだと思っている。