自分にだけ勝ちたい。
私は、あまり人と勝ち負けを争ったりすることが好きではありません。
勝ちたくないか?と言われれば、それは、負けたくもないでしょうが、その相手は、やはりいつも自分のように思うのです。
実は、いつも勝ちたい相手がいるようでいて、ほかの人との勝負も、結局は、いかに自分に勝つかということに帰結すると思うのです。
たまたま私が下手なりにも演奏もさせていただいていた経験からかもしれませんが、演奏は、人との調和でもあります。自分だけがうまくなっても、全体のハーモニや響きに調和がなければ、意味を成しません。音楽にならない。
それと同様、会社やたとえば今の教室でもですが、全体を考えることができる自分でいたいな、と思っています。
講師としての自分を考えると、エースピッチャーよろしく、自分の国語の授業が、よくありたい。けれど、生徒さん一人の受験を考えると、私ではなくて、ほかの人に頼ることもあれば、自分の教科より、ほかの先生の教科を伸ばしてもらう方が大切であることもあります。また、私が、国語より英語や社会、時には数学を指導することが大切なこともあります。
私は、今、ピッチャーもできる、キャッチャーのキャプテンをしているつもりです。みんなを見ながら、どこが弱いかを考えて、それぞれに先生を配置しています。
母親的目線の私が必要な時には、私がクラス全体の全教科を教えることもあります。
自分に勝ちたい。
そう、自分の感情に流されたりしないで、全体のバランスを見ながら、時には勝ちを譲ることも、自分に勝つことにつながることにもなります。
どこで覚えたのか、小学校低学年だった息子が、徒競走で、
まあ、今日は、○○に勝ちを譲ってやったわ!
と言って、ほかの仲のいいお母さまに、コラーッ、○○!そんなこと言うもんじゃない!と怒られていたらしいのですが(ほかの友達からの情報。)、この、「勝ちを譲る」という感じ、意外に大事かもしれません。
人に勝ちを譲ることが、意外に自分に勝つこともあるわけで。
私は一歩引いたところで、みんなを見守っていたいな、と思うことがありますし、また、それができるようになったとき、私は本当に成長しているだろうな、と思っています。そして、そんなことが教え子たちにも、伝わるような自分になりたいと思います。
昨日、先生って、タフなんですよ!だから自分に課すことを人にも課してしまうんじゃないかなあ、と表現した人がいました。
一方、先生は、絶対に、自分に課すことを人にも課す人ではないと思います。生徒や保護者一人ひとりを見て、その人に合わせていると思います。
と言ってくれた人もいました。
そういう、人の表現に一喜一憂しているとすれば、私はまだまだ自分に勝ててはいないと思います。
自分に課すことを人にそのまま課していないか?再度考えてみることも大切ですが、そうそうそういうわけでもないなあ、と思う自分も大切だし、人に合わせようと懸命になっている(教師ですから、そこに懸命も何もない。ただ、合わせ切るのが教師の仕事だと思っています。)自分のことを、自分が認めていれば、もし気付かないことがあっても、それはそれで自分のステージだと思います。
ただ、勝ち続けたい。
誰に?
自分に。
ほかの誰よりも自分という人間として、毎日一ミリでも成長していたい。
それは、瞬間瞬間の自分との闘いだと思います。
人ではなくて、自分の。
それは、ときに、状況を冷静に分析することも含めて、そして、ときに感情的になることが正しいときもあると思います。私の場合、感情的になる自分を見たくなくて、その場で我慢して、いい格好してしまうこともあるので。(笑)