体調崩すには崩すだけの意味があるということーしいたけさんの記事から
連日のしいたけさんの記事は、もしかしたら私に宛ててくださっているのではないか?と思うくらい今の私にはピッタリと来るのです。
そうそう退屈。
今までやっていたことに喜びもなくなっているし、それより体力的にも気力的にも無理が利かない。
ちょっとやそっと感情とは違うことをしてもそれなりに喜びもあったのに、そうもいかなくなってくる。
年齢のせい?と言われても、どうも子育て時代の方が疲れてはいた気がする。
ほんの少し前に、全くコロナの影響を受けていないと思い込んでいた自分が結構痛んでいたことに気付いたのですが、それだけではなくて昨夏の猛暑、今年の夏の猛暑もあってとっても疲れているようです。
今まであった気力も体力もなくてすぐに疲れてしまいます。
ちょうど仕事の仕方や生活の仕方を変えて行こうと考えていたところでした。
ただただ頑張ることだけで、自分の思い方を替えるだけではなんとかなるということではなくなってきたようです。
根本的に変革しなくては。
そもそも何かあるということは変革を求めていることだったりします。
それは自分が成長したからだったり、あるいは今なら時代や社会の仕組みそのものが抜本的に変わることを要求してきているようにも思います。
世の中自体がパンデミックや気候変動によって、こちらが変わることを要求してきているようにも感じられもします。
私のいる教育の世界でも変えていかなければならないこともあるし、もしかしたらコロナ禍以前の何かいいものをよりいいものとして捉え直す機会なのかもしれません。
私は今までこれは絶対変えてはいけないと思い続けていたものは変えない方がよいと、やっぱりね!という面と、この辺りはシステム化するべきだなという面と両方を見ています。
これからだって何が起こるかわかりませんが、コロナ禍が始まった頃の教室でのあわただしく変化した指導と学校が休校になった頃の忙しさを思うと、それなりに何かあったときのために準備しておかなければならないこともあるのだと思わされます。
それからやはり人間は生身です。
体力的にも精神的にもやはりケアしなければならない。
究極の状況で人を見る目も養われました。
みんなが大変な時期に、みんなが大変だから誰かの力によって支えられるというのではなくて、1人1人がやはりしっかりしなければならないのだと思います。
誰かしっかりしている人に頼りきりでは大変なことになってしまいます。
いざというときにどういう人なのか?こういうことは大事です。
自分が大変な時にどう振る舞う人なのか?
そういうことは大事だと思います。
私も自分のケアの仕方をしっかり見直そうと思っています。
それから生活のシステム化。
ルーティンはルーティンとしてしっかりやって、創造性のある部分をしっかり残しておきたいと思います。
そのすべての有機的関連性も今一度考え直す時期が来ているのでしょう。
人間関係も来るもの拒まずでは無理が来ています。
きちんとしっかり目的をもってお付き合いしていかなければなりません。
それを今回の不調で思っていたときに今回のしいたけさんの記事に出会いました。
なんともタイムリーであり、それこそみんなの普遍的な課題なんだろうなと思っています。