最近のチェリー・ブロッサムは国語強化なのか?あるいは数学?
先日の遠方からの新規の入塾生さんは、オール5。
オール5の生徒さんは他にもおられたが、こんなにもオール5な生徒さんも珍しい。
しかも学年最初の実力テストで国語が100点だったそうな。
で、数学を強化したく・・・、というメールから、とうとうチェリーは、数学のチェリーになってしまったのか・・・?と苦笑していた。
どうも自分自身のHPに最近ブログが書けない。
どこか教師ぶってしまっているようで、なぜかnoteにばかり書いてしまう。
私はずっと国語を教えてきた。
教育産業において、私にほかの教科を依頼することは、失礼に当たると思う方もいらっしゃったくらいに、私は国語の教師である。
学校現場では国語しか教えたことがない。
国語の専門性は確かにどうしようもなく専門性である。
ただ、私は相当に浮気性である。
大学にちょっと手伝いに行っていた時には社会科学や法律系などを教えていた。
教職法規を勉強していた時、意外な法律との親和性に気付いたのである。
正直、大学時代は一般教養で落としたくらいに法律が大嫌いだった。
こんな試験で落とすなんて、よっぽど要領悪いんと違うか?
四年間顔を見ればけんかしていた文学部で一緒で、部活も同じパートの男子にもれなく毒舌をはかれた。
こんなもの、誰が好きやねん・・・。できる方が変わってるんとちゃうか・・・?
学部にいる人の気が知れんわ・・・。ああ、退屈。
と、まったく異分野だった。
でも、やってみて、その論理構造を知るや、それに以外に、というよりそのものだけれど、融通の利くところを知り、意外に人間的やないか?と思い始めた。条文は生きているのである。
判例などを読むと、その筋が面白くなる。
昭和五十年代の判例は面白いという。
最高裁に偉大な商法学者がたくさんおられて、その判例の筋は一度は読んでおくべきだという話を聞いたことがある。
判例を読むと、法律がどういう筋で動いているのか?ということがわかってくる。
多少かじったことを聞きつけた人を通して、大学に法律関係も含めて社会科学を教えに行き、その次の年には、外国人のクラスを教えるために、専門学校に呼ばれた。
こちらは日本文化や異文化交流、言語についてだった。
このクラス、私の予備校時代の同僚が担任だったけれど、私が手伝い始めたころには、動物園状態だった。けじめがないともいえるが、それよりも、彼らの中に、授業と休み時間の境界がなかっただけである。
私の授業が終わって、担任の先生が来られた。
先生の話が始まっても、カバンに教材をしまっていたので側にいた。
あまりの騒ぎと、立ちかけてもう教室の外に行こうとしている姿を見て、思わず、
あなたたち、まだ教師が教壇でしゃべっているのに、誰が席を立つって言うんですか!?
と叫んだ。
そしたら、一瞬の沈黙の後、一人のイケメンの生徒が、
先生、カッコいいー!
と片言で言い始めて、なんと、彼らは席に座り直して、神妙に担任の先生の話を聞き始めた。
その一件があり、その担任の先生、つまりは予備校時代の同僚は、私をして、
どこででも生きていける・・・。
と言い始めた。
もう一人の国語科の先生は、超絶お嬢様だというし、持ち上げるので、
申し訳ないけど、○○先生と一緒にしないでくれる?
と言った。ご自分の立場や人気だけを気にして、生徒のために役立とうという気持ちが感じられない。そういう人をお嬢様だとかなんだとか言っている。そういえば、私も大学時代に、四年間喧嘩ばっかりしていた男子から、
お嬢さん・・・。
と揶揄われていたことを思い出して、思わず引き合いに出してしまった。
そしたら、彼は言うのである。
どこがー?
つまりは、その外国人の生徒たちは、
これを言っていいのかなあ・・・。
という話であったが、教室で刃傷沙汰を起こしたこともあるらしい。つまりはナイフを持っていたとか?
そういう場にその話をせずに呼ぶ君もよくないが、そもそも担当したのなら、しっかりクラスを治めたまえ・・・。
それに、教師たるもの、治めることを褒めてもらったとしても、それをお嬢さんでないということとイコールにするな!
要するに、彼が治めきれなかったクラスを、たかが非常勤の私がさっさと落ち着かせてしまったことの悔しさをそういう言葉にしたのだと思う。
そういう男は大っ嫌いである。
まあ、いい。それはどうでもいい。
ただ、ここ数年、大学に教えに行ったり、あるいは専門学校で全く別の教科を教えに行ったりしていて、アイデンティティの崩壊はますます進んでいっているようである。
私は生来好奇心が旺盛である。
それは認める。思い切り・・・。
ただ、国語と同等に数学、ということになると相当浮気性が、いや不倫度が増す。
けども楽しい。
最近は共通テストの問題にはまっている。
ひところは当然二次試験のほうだったり私大のほうだったりしたが、数学はまだまだ未知の面があるので、自分の頭を開発していくのが大好きな私には退屈しない世界である。
共通テストには共通テストの性質がある。
誘導にうまく乗れたら、共通テストはヒントの宝庫である。
大体において、自分の解き方で解きたいタイプの私には、共通テストや旧センター試験は、
この世界、なんやねん・・・。
だった。
ところが、今年の高三生は女子ばかりのクラスで(高二生が全員男子とは好対照。)、あまりぶっ飛んで数学が好きというよりは、コツコツまじめに積み上げていくタイプである。
第一問から、あれえ?と可愛く言っている。
ので、丁寧に教えたくなったら、私のほうがノってしまった。
ちなみに、国語を語るときにはスカートをはいて、まるで声楽のように歌うように語りたい。これは古文。
バシバシに論理的に評論を教えるときには、もう少し固めに行きたい。漢文も同様。
漢文のときには、
いいねー、いいねー。この男。いやあ惚れてしまうわ・・・。
というくらいカッコいい男性も登場する。
古文の男はあまり惹かれない。
こいつら、政務もしないで、恋ばかりに走っていたのか!?
と呆れることも多い。
でも、馬鹿な男が存在するから、恋物語は存在する。
そんな不遜なことを言っておきながら、ノリにノッて恋物語を語っているのは誰だ!?
おかげでそれが得意分野で専門だという疑いをかけられる始末。
法律などが好きなタイプなので、そもそもは現代文の評論が大好きである。
もっともっと論理的な、思い切り難しい問題を頂戴!
ところで、新規の入塾生の面談では、以前は国語を強化したくて塾を探していたとのこと。そして数学を強化と思っていたときにチェリーに行きついたということらしい。
先日体験指導をしてみて、国語はよくできる生徒さんだなあ・・・、と思った。記述式の問題のまとめ方、字数によるどこまで書くか?という判断ができれば、そして内容をまとめて言葉にできる力がつけば、相当に伸びるだろう。
数学は、これは私とともに、難問をたくさん解いていけばいいタイプ💛
今まで男子にそういうタイプはいても(実際、共通テストは軽いというタイプがいる。勝手な解法で解き始める。そのオリジナリティには脱帽する。)、女子でそれができるタイプは少なかった。
これは私の好敵手になりそうである。(笑)
好敵手って、うちは塾なのだから、こういう表現をしていいのだろうか?
この本は面白い。
一日一題ずつ解くようにできているが、そんなもの、一題で済むわけがない。当然に次に行きたくなるが、素数の扱い方など、高校数学より面白いかもしれない。数学の楽しさが詰まった本である。
初回の指導の前に、予習をしておこう。
そうなのである。
予習もいらなくなってしまい、退屈していたのである。
そうそう生徒たちも、難しい質問をしてくれて、数日うんうん唸りながら難問を解くなどということが少なくなってしまった。
開校当初は、センター英語でも予習をしていた。
大学受験業界に入ったころには、もちろん大講義だからだけれど、厳重に予習をしていたものだった。
その感動が最近はない。
年を取ると、ストックがたくさんあって、どの教え方がこの子には最善か?ということがわかってしまうのでつまらない。
こういう初心を忘れたような表現をするところがそもそもいけない。
初心に帰れ!
というような話で済まない悩みである。
かつて、掛かりつけの先生に、こともあろうに、
先生、以前は予習して必死で教えていたのに、最近は予習も必要なくなって、それで同じお手当いただいていていいのかと悩んでしまうんです。
要領よくなっても、それでもおなじ時給でいいんですよね?
と何を悩んでいるのか、まるで進路指導を受けている女学生のような、先生もよくわからないような質問をしながら、涙ぐんでしまったことがあった。
あああ、申し訳ない。
ううん・・・?
とおっしゃりながら、きっと先生も、
この人、何言うてるんかなあ・・・?
と思われていたと思う。
確か、
当たり前やろ・・・。
ともおっしゃっていたと思う。
これでは律儀すぎる良い人みたいであるが、そうではなくて、退屈していて、どうすることもできないというのが本音であった。
そうそう、難問がいてくれればいい。
退屈しない。
それはお料理も一緒である。
とっても難しくて、手のかかるお料理なら、退屈しない。
が、最近、お料理本の写真を見ていたら素敵だけれど、でも、見れば作り方が大抵わかるから、これも研究科になるのはよそう。おそらく無理である。
先日、かつてお料理研究家になりたい、パティシエになりたいと思っていたことがあり、そういうところはビジネスマンだと褒めていただきたいが、ちょっと形の良くないロールケーキを久しぶりに作ったからと言って、そのコストと、どれくらいで売るか?という計算をした。
儲けと時間を計算したら、とんでもない時給になり、
こんな事やってられるか!?
ということで、私の場合は教育業界でお世話になることが一番人のために役立つということが分かった。
専門家は(これは私の兄であるが。)、それなりに時間もコストも定価も、それでつじつまが合っているのであろう。要領の良さも、作品の出来も。
私などが作ったら、そうそう役に立つ代物ではない。
ちなみに兄に、ミルフィーユを作りたいからパイ生地の作り方を教えてほしいと言ったら、だって、道具だっていいのを知っているだろうし、
そんなん冷凍パイシート買っといで・・・。
と言われた。
チッ!企業秘密というわけか・・・。
があきらめたわけでもない。
というところが私である。
私の場合、味を追求したり、形を追求するのが役に立つタイプではない。
如何においしく栄養価があるか?
腹持ちがいいか?である。(笑)
儲けというのは、月商や年商というのは、いかに社会に貢献したかということの証左である。
ドラッカーの説である。
手元に本はあるが、『現代の経営』であったか、『マネジメント』であったか、『産業人の未来』であったか、あるいは『ドラッカー・ディファレンス』などの講義系の本のなかであったか定かではない。だから調べる気もない。
そう言えば、経営系の本を最近あまり読んでいない。
稲盛さんは別であるが、じゃあ、何読んでいるかな?
料理本?
いや小説?
教師席には、なぜか国語の教材ではなく、数学の本が常時山積みとなっている。
チャートやフォーカスゴールドやレジェンドなどが所狭しと積んである。
参照したい問題を探すためである。
その他、マニアックな問題集もある。
最近は法事やら何やらで、主婦業のほうが忙しかった。
なんやら、子供たちが小さかった頃のような生活が続いていた。
荘子の説や禅宗で説かれたように(岡倉天心の受け売りであるが。)、相対的なものの考え方は大事である。
大きな真理は日常の些末なことの中にある。
修行の進んだお坊様が、小さなことをすることから真理を体得しようとされるように、私たちも日常の些末なあれこれは大事である。
それに人と接することで学ぶことは多い。
とはいえ、やっぱり学問は面白い。
この、知的欲求を、汲んでも汲んでも尽きない泉のような、そういう分野に向けたいものである。