会議が苦手だった昔に戻りたい・・・。
しいたけさんの記事から思い出したことがあったので書かせてください。
生徒に言うと、絶賛否定されるのですが(笑)、私はその昔、とってもおとなしくて、会議で発言するのなんて、とっても怖くて仕方がありませんでした。
何かの面接でも、数回、
声が小さくて聞き取りにくかったので、もう一度言ってください。
と言われたことがありました。
母は、小学校低学年時の先生から、
真弓ちゃんは、何か言わなあかん時には、重たい口をこじ開けて、一生懸命発言してます・・・。
と言われたそうで。
そうそうおとなしくなかったと思われるのですが、小学校五年の先生からは、
おとなしくて、話しかけても来ない。
とのことだったそうです。
いやいや、おとなしいんじゃなくて、あんたが怖くてね・・・、と今なら言いたい。(笑)
それがいったいどうしたことか、いつからなのか、まったく会議が怖くなくなりました。
というより、今回は黙っておこう・・・、と思うのですが、どうも私が発言した方がよさそうな雰囲気になるので、まあね、利他の心がないわけではなく、また、自分が生きているというのは、自分だけのためだとは到底思えないもので、だから、これは役立たなければならないと思うと、考えるより先に手が先に動いて、挙手している、あるいは、挙手の必要のないときにはさっさと発言していたりします。
あのう・・・、と始まり、時には笑いを誘うボケをかまし、なあんとなく言っている内容とは別に、なあんとなく通ってしまうのです。
一番最近では、
あのう、若い人というのは何歳くらいの人を言うのでしょうか?(胸に手を当てて、)私も若い人に入りますでしょうか?
中身に比して、結構柔らかい雰囲気があるらしい私は、なんとなく受け入れられて、笑われて、その続きに、
あんた、○○の会、入ってくれん?おお、そうけ?入ってくれる?名前書いておいていいが?
と言われた会は、てっきり最近やってきた母向けかと思ったら、私に言っておられたという、喜ぶべきか悲しむべきか、ようーわからん話になりました。
おそらく鋭いこと言って・・・、みたいなことだったとしたら、そんな風に話しかけられないと思います。
結構重たい口の時も、私が話すと受け入れられることが多かったのはなぜだろう?
おそらくはやっぱり、この、スリムだったことのない体型と、温和そうな顔のせいだろうと思います。
こんな私ですが、ある職場での矛盾に耐えかねて、ある人に質問したら、そこは論理の矛盾を突いたみたいで、急所だったみたいで、
何が言いたいんだー!
とアタッシュケースを投げられたということもありました。
その時は、思い切り戦いました。
今なら、ちょっと当たったから、暴行罪くらいにはなったかもしれないし、まあ、威嚇されたとは言えます。当たっていなくても、まあね。やってはいけない。
だって、悪いことしているのはあっちだったのです。
ただ、余計な労力を割いてしまったなと思っています。
そういうのは、そこに長くいたいのでなければ、そーっと触らないようにしておくのが一番です。
でも、その場所を離れるに離れられない。
だから、ちゃんと離れるために、私は敢えて言ってしまったのかもしれません。
そういうときってないですか?
もう方向は決めていて、その場所から離れようと思っている。
次のステージに行くことはわかっている。でも、情などのせいで、動けない。
そういうとき、自分に対しての荒療治をするのかもしれない。
そういうときって、自分でわかっているものです。
もうこの場所は自分には合わない。
もしかしたらほかの人にとってはそれでいいのだろうし、だから自分はもっと自分に合った場所に行けばいい。
それはわかっているのです。
でも、誰かに決定打を打ってもらわないとなかなか動けない。
これって、彼氏と別れたいけど、どうにも悪い奴になりたくなくて、あるいは惰性で付き合っているときなんかもそうかもしれない。
相手が浮気するとか、自分が振られるとかのほうが、責任を感じなくていいけど、自分から言うのはちょっとね・・・。
ということで、私はさっさと就職活動をし、国語科の先生からちょっと足を洗いたいと思っていて、社会科学系の方面に進もうとしたら、やっぱり国語に戻されて、ちょっとがっかりしたことがありました。
国語はなじみ過ぎていたと思っていたのです。
どうもぬるま湯状態。
めちゃくちゃ専門的にどこまでもいっている研究者ではないけれど、でも、こんなとこかな?とはわかっている。
次に行きたい・・・。
でも、次に行った場所で、とことん国語科の教師としてのあれこれを学びつくしたと思っています。
現代文も古典も。
今も国語を教えるときは、とんでもなく生きやすい場所で泳いでいる感があります。
そうそう、昨日、東大クラスの男子と数学の復習をしていた時に、とどめの一撃のような言葉を吐きました。これは敢えて・・・。
やっぱり、国語を教えるってほんっとうに難しいことなんだってわかるわ。
数学はわかればある程度教えられるけど、国語は自分がわかっているだけでは解説できない。伝える言葉がなければ・・・。
数学への敬意もあれば、憧れもあるのだけれど、この二つの教科は相当に結びつきが深いものの、一方はいかに簡潔に、短く美しくストーリーを組み立てるのに対し、一方は、何とか相手を納得させるために説明を尽くし、そのために言葉を効率的に使うものだと思います。
そういえば・・・。
アメリカには法学部というものが存在しないと聞いたことがあります。
法律は理系扱いだということも聞いたこともあります。
大学の心理学の講義で、先生がおっしゃっていたのだけれど、それ以上に調べたわけではないのだけれど。
ただ、法律の考え方というのは、二分論を重ねていくものだから、法律の勉強というのは、数学とつながっているだろうことは容易に想像がつくというものです。
私が、国語の力をいつも評価されてきたのは、国語力のせいではないと思います。
数学的思考のためです。
解説するときには。当然に文章が「見えている」状態になります。
見えているということは論理的に見えていて、どことどこが呼応し、上位の概念に吸収されているのかということが、まるで糸で結び付けられているかのように頭の中で構図が見えているということです。
これは現代文の評論で使ってきた論理です。
かつて予備校で、河合塾のテキストだったかで、三島由紀夫の論を読んだことがありました。
そのときに、三島が、刑法が一番好きだったという話を読んで、
ああ、これやこれや!
と納得しました。
本来私は論理が好きな人間です。
なぜに私が古文を解説すると、
先生、古文がご専門で?源氏?
と言われるのか納得がいかないのです。嬉しいけど。嘘ついてるみたいで。
とはいうものの、心情は、変に大和撫子めいたところがあるので、日本人の心性については、どの時代の人に対しても共感してしまうので、わからなくもないけれど、
評論が得意?
と言われた時ほどの納得感も、ああ、わかってくれたのね、感もないのです。
あああ、いつものように、まったく話がそれましたが、最近の私は、どこかで発言するときは、論理的かつ、心情に訴えるようにしています。
どれほど論理的破綻がなかろうと、人間は気持ちで動いているものです。
誰が論理で動くかいな・・・。
というわけです。
論理を通すために、自分の考えを通すために、気持ちに訴えるということは重要です。
気持ちになじんでこそ、言っていることが通じるのです。
だから、私はきっと、現代文の評論のように思考し、古文に登場する人のように、心に訴えているのだと思うのです。(笑)
などと都合の良いように考えようではないか・・・?
ということは、あれこれ指導している教科のおかげで、会議で発言できるようになったのかもしれません。
でも、もう一つ。
どう思われてもいいと思っているのです。
若いころの自意識はどこかに飛んで、その場でどう思われようと、究極役に立っていれば何とかなるということを経験から学んだのだと思います。
それに、周りの人も、自分が思うほど、そうそう立派なことばかりを考えているわけではない、ということも、人生経験を積んでわかっていたのです。
自分の都合。自分ができるだけ損しないでうまく回っていける方向。
それを考えているものだと思います。
お金も支払わないでいられたら、なおいい。
だから、少々おかしなことを言っても笑われることはありません。
いや、笑われるかな?
あらら、面白いわ!って?
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