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誰かの得意なことを残しておいてあげる心の余裕と頼ること

私は自分で言うのもなんですが、正しいことが好きです。
感情論よりも、頭でどうのという方が好きです。

だから、ご存じの方もいらっしゃると思うのですが、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の兄弟の中で、奔放なドミートリイでもなく、純情なアリョーシャでもなく、誰よりも勉強が大好きなイワンが好きでした。
読み返す機会がなかなかなく、学生時代に読んだ印象で語るのもどうかと思いますが、私は、兄弟の中で、イワンが一番好きだったし、というよりも、イワンの気持ちが一番わかりました。共感していたのです。
その理由もわかっていました。
イワンは、自分が愛情を掛けられていないので、学問に逃げているように思えたのでした。
そういう理屈でものを考えがちな人間は、ときに正しさを追求します。
今の言葉で言うと、あれこれ言ってくる人を論破するために、私は理屈屋な面があります。
それは多分に、兄ひいきな父に対する反抗心もあれば、いっとき、目が悪くて、盲目になるかもしれないと言われた妹を心配して、私のことまで考えている余裕がなく、心配かけてはいけないと思い詰めていた母に対する気持ちから来ていると思います。

父は兄には甘かったのです。
どうしてこんなに違うのかな?と思うほど。
結局長じて兄は父の逆鱗に触れ、私もどうしたらいいのかな?と悩むことになるのですが・・・。
母は妹にはあまり何かに期待していなかったようでした。でも、甘やかしはしていました。
つまり私は、親にあてにはされるが、守る対象ではなさそうでした。
母に言わせると、私が一番気に掛けてきたということになりそうですが・・・。

ということで、どうも私は自分が正しくないとダメだと思っていたようです。
それは父に叱られたとき、あるいは、担任の先生の理不尽な態度に対して、とにかく対する方法だったのだと思います。
何か言われたときの予防線?

その気持ちが、イワンの気持ちと共鳴するかのように、イワンの言動の意味が分かりました。

もう一度読み返してみたらいったいどうなるのだろうか?

英文学をご専門にされ、比較文学で学者になろうとされていた先輩と『カラマーゾフの兄弟』について話していたのを思い出します。
もう一人予備校の同僚と、ちょうど亀山郁夫先生が斬新な訳をされて、一大センセーショナルを起こした頃でした。

彼は大学時代、新潮文庫の『カラマーゾフの兄弟』を読もうとして挫折し、亀山訳でやった読めたとのことでした。
亀山先生の訳は、ロシア人の、一人につきいくつも呼び名があるところを一人一つにしたという、とんでもない画期的な訳でした。

本屋さんの仲良くしていたスタッフの方に尋ねてみました。

新訳を読んだ方がいいですか?

そしたら、

新潮ので読んだのなら、わざわざ新しいのを読まなくても・・・。

と商売っ気のないことを言われ、家の本棚には、新しい訳の光文社の方はありません。

そういえば、娘に、『罪と罰』を読ませたことがありました。

私同様、自分がラスコーリニコフになった夢を見て怖い思いをしたらしく、学校の先生とのやり取りのある、「毎日のあゆみ」にその話を書いたら、

いつか読んでよかったと思う日が来ると思いますよ・・・。

と書いてくださっていたのでした。
私は、同級生だった、この先生が、かつて同じ職業だった者として、大好きだったし、信頼していました。
私が中学生と小学生の母をしていた頃、まだ新米パパさんだったので、何気にその、親業の経歴の長いことを優越感に感じ、

私の方がお姉さん!

などと考えていたけれど、学生時代に出会っても、絶対にどうのこうのとはならないタイプの方の方でした。
誠実で、真面目で、でも温かくて、素敵な旦那様だろうなと思っていたし、娘も、先生の奥様が出産されたときに、付き添われたことに、何かを感じていたらしく、赤ちゃんの性別を先生に尋ねていたりしていました。
同僚にいたら、いいなと思われる人でした。

もう一人、この方はフランクだけれど、相当賢い方だなあと思われる大先輩の先生もいらっしゃいました。

尊敬してます・・・。

という表現が陳腐に思われるほどの、どういったらいいのか、先生にしては偉くない先生でした。
どうも表現できない。
そういう先生が、出世するタイプかと言われれば、どうも私は、そうでない方に惹かれるような気もします。
でも、だからと言って、いい先生であることには変わりはないし、大先輩の中に、出世していて素敵な先生もいらっしゃるのです。

先日、ある生徒の受験の過去問を読んでいて、西行の話が出てきたのです。
西行は、何ものにもなろうとしなかったけど、何ものにもなろうとしたんだという逆説めいた論でした。

なるほどな、と納得させられました。
そして、私もそういうところあるし、それぞれに、適当にできて、でも、それ以上ではないということがたくさんあるということに気付いたのです。

そうしてきました。
だから、たいていのことは、ある程度はできます。
いろんな話にもついていけるのです。
だからこそ、そのことを大事にしておられる人の、大事な部分は大事にそっとしておきたいと思うのです。

何でも知ってます。
それもできます。

という態度はちょっと品がないな。
地方にいるからか、私などでも、結構できることになってしまったりするのです。
紫式部のように、私は漢籍は、あんまり・・・、という風にできないものか?
とはいえ、できます、というのは、機会があればその方面で、誰かの役に立つことができます、という用意をしているということのようではあります。

何を得意とし、これはここまで、というのをちょっと決めて、私はこれ、というものがあってもいいのかもしれない。
たくさんのことをやっておくと、もちろん当然に話をする相手と、どういう話題でもつなぐことができるので、まあ、いいこともあります。
でも、私も、私も、というのでなくて、ここは誰かに任せるというのも大事かな?と思い始めているのです。

というのも、今月のおうし座は、苦手なことと得意なことを分けると言いそうなので。

先日から、あれこれ行動し過ぎです。
そのための抜けが今日露呈してしまったのです。
仕事ではないのです。
でも、誰かの専門的な仕事を邪魔するようなことになってしまったのです。
まあ、コロナに罹って、それが長引いて、掛かりつけの先生も驚く長さだったし、回復してからも、すぐにはあれこれできなくて、予約してあった温泉に行くのが精いっぱいだったのです。
その後は、母のあれこれもありました。
ちょっとそれは勘弁してください。許してくださいとでも言いたかったけれど、自分の仕事を大事にする分、人の仕事を粗末にするような事態に陥ったようで、私はちょっと落ち込んでいるのです。

ドライに割り切る方法もあるにはあります。
でも、手間を取っていただき、こういう手順で、と私にもうまくいくようにと考えてくださっていたことを粗末にしてしまったと思っているのです。

正しさなんて、どこにある?
私にとってはどうしようもなかった。
でも、誰にでもそういうことはある。
もうこれ以降、正しさなんて追求したくない。
癖ではあるけれど、それはやめたい。
正しさなんて、百人いたら百通り正しさもあれば正義もあるのだから。

もう、なんていうか、自家製正義感を振りかざすのはやめたいなと心の底から思ったのです。

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櫻井真弓/国語大好き!(&数学)
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