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【寝言】”#先生死ぬかも”に関して一言

一昨日だったかな。

ツイッターのTLを見ていたら、”#先生死ぬかも”というタグでつぶやいているツイートがたくさん流れてきた。実際に同僚の先生が突然死んだとかそういった内容のツイートがバズっていて、教員という職業の闇を垣間見たように思えた。

ツイッター上では賛否両論だったが、私自身、まだ学生の身分かつ教育実習すら行ってないので、具体的な教育現場については全くわからない。否、学校や地域によって事情も異なるわけだから一生理解できないのかもしれない。知っているとしてもSNSやネット上の情報くらいしか知らない。だから、具体的にどうこうとはコメントできない。

賛同する側も批判する側も共感できる部分はあるし、どちらが良いかという判断もできない。だた、両者とも完璧主義に走りすぎてちょっと余裕がなくなっているのでは?と感じた。なので、私が普段余裕を創るために意識している考え方について話したいと思う。

私がいつも心がけているのは、”自分の代わりはいくらでもいる”と考えながら生きていることだろうか。

私自身、小学校から今まで常に”競争”に追い立てられる、所謂人の目に晒されてきた環境にいたので、精神的に疲れていることが多い。そんな環境にも耐えられない豆腐メンタルなので、小学4年生くらいから「早く死にたいなぁ」なんて考えるようになっていた。そんな状況から抜け出すためにも、今いる環境から逃げ出すか、人の目を意識しないようにするかのどちらかしか選択肢がなかったのかもしれない。

しかし学校に所属している立場からすると、前者の選択肢は不登校、あるいは休学ということになる。不登校や休学になると一般的なレールを外れる(まぁ既に浪人しているのだが)ので、将来に影響を与えてしまうのではないかと考えてしまい、精神的なハードルが高い。また、この選択をしたことによって学費が無駄にかかるなどの経済的なハードルも高い。

そのため、私は後者の人の目を意識しないようにすることを選んだ。競争に負けてもいいじゃないか、ミスってもいいじゃないか、他人に評価されなくてもいいじゃないか、全てのタスクを完璧にやらなくていいじゃないか、どうせ代わりはいるんだから。そう考えるようになった。

そうしたら、他人の目はもちろん他人の小言も気にならなくなったし、他者評価で一喜一憂する機会も少なくなった。それでも完全に気にならなくなったわけではないので、他人の目が気になるときは精神的に疲れている時だろうという認識ができるようになった。その最適解にたどり着くまでに5年もかかったが。

民間も教職も、張り合っているものは違えど他人の目を気にする環境にいることに変わりないと思う。だからどちらでも職場環境で愚痴が出るし、追い詰められて自殺や突然死するといった事態になるわけだと私は考えている。1人あたりの仕事量が多くても、自分で効率よく処理する方法を考えるとか、他の先生(or社員)に丸投げするとか色々手段はあるのではないかと思う。ただ、その手段を考えつくに至るまでにも、心理的な余裕は必要だと思う。

だからこそ、”○○してもええじゃないか、どうせ代わりはおるんだから”と暗示して肩の力を抜いてみてはどうかと感じる。

と、私なりにボヤいてみた。




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