🟥はじめに
その4はこちら
皆さんごきげんよう☺️。
『晩成社展』十勝の歴史を辿るシリーズも、いよいよ今回でラストとなります。
よろしければ、お付き合いください🙇♂️。
🟥『晩成社展』の様子 その5 ~語り継がれる晩成社、依田勉三~
🔴依田勉三を研究・顕彰する運動
1925年(大正15年)、中風症によりこの世を去った依田勉三。
今際の際に「晩成社には何も残らん。しかし、十勝野には…」と述懐した通り、勉三の死後の1932年(昭和7年)に晩成社は解体され、言葉通り何も残りませんでした。
その一方で、晩成社の社有地を宅地として一部開放したり、「晩成社や依田勉三という開拓の先駆者がいる」という声を聞きつけ移住して来た人々の力によって十勝は発展し、大正時代には人々の暮らしが安定するレベルにまで至ったのです。
もし、晩成社や依田勉三がいなければ、十勝・帯広がここまで発展する事は無かったかもしれません。若しくは、発展が遅れていた事でしょう。
晩成社や依田勉三が亡き後も生きる先人の方々が、先駆者である彼らに敬意を持つ事は至って自然な事でした。
そして今、こうして筆者が晩成社の事について執筆出来ているのも、それを語り継がれた方がいてこそのもの。
こちらでは十勝開拓における、先駆者中の先駆者である晩成社や依田勉三を、先人がどのように後世に伝えていったのか?を知る事の出来る史料の数々をお届け致します。
🔴郷土史家の視点、そして…
その一方で、晩成社・依田勉三を語り継ぐにあたって過度に象徴化がなされ、当時の実態とは異なる語られ方をしてしまう場合もありました。
こうした状況に疑問を投げかけた郷土史家が存在し、開拓当時の史料を読み直したり、誤っている記述を直したり、新しい発見をしたり、史料に基づいた研究がなされました。
こうした姿勢は現在の晩成社・依田勉三の研究にも引き継がれています。
こちらでは、開拓の歴史を正しい形で伝わるよう努力した郷土史家の史料の数々をお届け致します。
🔴語り部になった渡部カネ
晩成社の幹部である依田勉三や渡部勝、鈴木銃太郎は大正時代末には既に亡くなっており、郷土史への注目度が高まった昭和初期に開拓当時の事を知る人物は限られました。
鈴木銃太郎の妹で渡部勝の妻となった渡部カネは、その中でも開拓当時の事を知る、数少ない人物の一人でした。
渡部カネは1883年(明治16年)から帯広でくらし、晩成社やアイヌの子弟に勉強を教えていました。
こうした「人に伝える」という姿勢は晩年になっても衰えなかったようで、1945年(昭和20年)に亡くなるまで様々な人に晩成社の開拓について語りました。
こちらでは、晩成社の功績を後世に伝えた重要人物である、渡部カネ氏に関する貴重な史料の数々をお届け致します。
最初の項『🔴依田勉三を研究・顕彰する運動』と合わせてお読みください🙇♀️。
また、依田勉三が詠んだ『開墾のはじめは豚とひとつ鍋』という句は、渡部カネへのインタビューによって掘り起こされ、現在に伝わりました。
十勝の有名な製菓会社・六花亭のロングセラー「ひとつ鍋」は、この句が元となり帯広開基70周年を記念して生み出されました。
🟥今回のまとめ
🟥最後に
『晩成社展』の様子をご紹介する、十勝の歴史を辿るシリーズも、今回で終わりです。
如何でしたでしょうか?
ただ、ふるさとを語る・歴史シリーズはまだまだ終わりません。
今後も様々な書籍や史料を読んだり、資料館や史跡に赴くなどして知見を積み重ねて行き、色んなふるさとを語る・歴史シリーズの記事を投稿する予定です。
また、全5編の十勝の歴史を辿るシリーズもそのまま放置せず、構成や文章面で改良の余地があると考えておりますので、随時加筆修正する予定です。
たま~に見直してみたら、新たな発見があるかもしれませんよ☺️。
それでは、今日はこの辺で🤗。
また会いましょう☺️。
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