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弱音を吐くのは悪いことじゃない

弱音を吐くのが本当に苦手だ。

幼い頃から何となく、泣くのにも喚くのにも、明確な理由が必要だと思っていた。
そもそも明確な理由があるのなら解決方法があって、泣き喚くよりももっといい方法があると思ってきた。
なんでこう考えるのかは元々の性格によるんだろうけど、小さい頃にそうやって考えてしまう子供だったが故に、解決方法の決まらないまま弱音を吐くということが苦手なまま育ってしまった。

「弱音」という言葉も、弱い人間だというレッテルを貼られているようで、弱音を吐く、ということが悪いことをしているように感じてしまう。
漠然とした正解のない悩みや不安を人に言っても、結局は自分でなんとかしなくてはいけないという強迫観念もあった。

なぜだか不思議と私の周りにも弱音を吐くのが苦手な人が多い。
以前私が友人とのお酒の場で勇気を出して、実は「弱音を吐くのが苦手なんだよね。答えや正解のわからない漠然とした悩みや不安を人に話せない。」という話をしたところ、私の中では自分の道を堂々と歩んでいるように見える、尊敬している友人が同じ思いを抱えて苦しんでいることを知った。

私は自分で考えて行動する人、自分の意見や好きなことを持っている人が好きで、尊敬もしているから、そういう人の周りにいることが多いのだけれど、だからこそ私も相手も互いに「自分で決めなければいけない」、「弱さを見せてはいけない」って無意識に縛ってしまうのかもしれない。

このお正月に、映画「ミステリと言う勿れ」を観た。久能整という大学生の主人公が事件に巻き込まれ、事件の謎や関係者の悩みも淡々としたおしゃべりの中で解決していくミステリーなのだが、私はこの久能整くんの言葉がとても好きだ。
映画の中でも、事件によって心に深い傷を負った依頼人の女の子にカウンセリングを勧め、「どこも悪くないから受けたくない」と断られた時、アメリカの刑事の例を出しながら言った言葉が印象的だった。

人は弱くて壊れやすくて、病むことも倒れることもある。それが当たり前だから修復する。直そうと思う。(アメリカでは、)それができると信じている。
翻って日本では弱さを認めない。弱いものは負けで壊れないのが正しい。壊れたら退場で悩むことすら恥ずかしい。相変わらず根性論です。弱くて当たり前だと誰もが思えたらいい。

「ミステリと言う勿れ」4巻/田村由美

アメリカでは、事件に関わった刑事も、一般の人も、カウンセリングを受けるのは当たり前のことで、「人の弱さ」を認めている。けれど日本では「弱い」=「負け」「恥ずかしい」と言う考え方が未だに根付いている。

弱くて当たり前だと誰もが思えるようになれば、心が壊れ切る前に直すことができる。壊れても倒れても、また始めることができる。周りの人にもっと優しくなれる。

弱音を吐くのは、弱い自分を認めるのは、
そもそも「弱い」ということは悪いことじゃない。
強いよね、といわれたことのある私が、実は吐き出せない弱音があったように、人は皆弱い部分を抱えて生きている。

誰かにでもいいし、ノートにでもいいから、これからはもっと正解が見つかっていない弱音を吐いていきたいし、
弱音が言えない誰かが吐き出せる居場所になってあげたいと思う。

私だって弱いから、誰かと弱さを認め合って生きていきたいなと思うんだよ。

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ヒマリ
ありがとうございます!ちょっと贅沢します。あなたにもちょっといいことありますように☺️

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