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国家神道についての呟き(2)

「国家神道」の厄介なところは、その定義そのものが未だに定まっていないように思われる点にあります。

この言葉は、GHQが神道指令の中で初めて公式に使ったものであり、その時点では、「日本政府法令ニ依ッテ宗派神道或ハ教派神道ト区別セラレタル神道ノ一派、即チ国家神道乃至神社神道トシテ一般ニ知ラレタル非宗教的ナル国家的祭祀トシテ類別セラレタル神道ノ一派」と定義されています。ただこの時点で、すでに混乱の種が組み込まれています。

すなわち、戦前において神道は、そもそも宗教には位置付けられていませんでした。そして「国家神道」の根本的にして最大の問題は、まさにその点にこそあったと考えられるのです。

その理由は、天皇制の拠って立つ神道を、明治の代になって一挙に流れ込んできたキリスト教の脅威から守るためでした。神道を国の儀礼に棚上げし、形の上での信教の自由は保証する。そうしたレトリックでした。

国との軋轢を避けたい他の宗教勢力は、このレトリックを進んで受け入れたように思われます。そうすることが、自分たちの信教の自由を守ることにつながると考え、また実際にそうであったからなのでしょう。

ですがこのレトリックは、そんな仮初の信教の自由など、いとも容易く骨抜きにしてしまうほどの威力を持っていました。国家の儀礼なのだから、日本国民である限りは、何人たりともこれを拒むことはできないのだという論理によって。

私が思うに、こうした構図こそが「国家神道」の本質でした。

そしてこの構図を補強したのは、神道そのものというよりは、そこから派生した俗説のようなものだったことでしょう。それは例えば「教育勅語」に凝縮された、現人神としての天皇制に依拠する国家主義でした。つまり戦前の日本は、神道という宗教と不可分な天皇の存在を繋ぎ目とする、祭政一致国家に他ならなかったのです。

少なくとも、明治新政府の組織の推移を見る限り、施政者たちは、そうなることを頑なに拒み続けていたように思われます。ただ西欧諸国との関係上、どうしても信教の自由は保証しなければならない。そこで持ち出した方便が、結果的には実質的な祭政一致国家を創り上げてしまうという、なんとも皮肉な次第となったのです。

神道の国家儀礼への棚上げの推進者とされる井上毅はまた、「教育勅語」の起草にも携わったと言われています。ただ後者が後の日本にもたらした影響について、どうも彼は軽く考えていたようです。彼にもし、自らの遺した禍根がその後の日本に及ぼした影響を見届けることが出来たなら、大きな自責の念に駆られずにはいなかったことでしょう。

だからこそ、神道には、宗教の一つというあるべき位置を与え、祭政の分離を推し進める必要があったのでしょう。そうした脈絡の一つとして、天皇の人間宣言も不可欠なことでした。

ただそうした意味で言えば、「神道指令」は重要な階段を一つ抜かしてしまっていたようです。それは神道を、端から宗教として取り扱ってしまったことです。実質的にはそうでも、形式上は違ったのに。その混乱が、国家神道≒神社神道という表現を生んでしまったのではないかと思われるのです。また、この混乱をそのまま受け継いでしまったばかりに、国家神道に関する議論が噛み合わないのではないかと思われるのです。

こう考える私にとって、現在に遺る国家神道の象徴的な存在は靖国神社に他なりません。

多くの場合、宗教的な時空や権威というものは、閉じられたところに生まれるものです。ある存在に、ある人に、ある場所に、閉じられた信じるに値するものがあって初めて成立するものです。

ところが靖国神社は、今でもその口を開いたまま、その可能性を閉じることなく存在し続けています。靖国神社を巡る論争は、単に戦犯の合祀問題に止まらず、その真っ赤な口が未だにこの国の国民を呑み込む可能性を残していること、それに対する受け止め方の違いによって整理されるべきなのです。