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矮小化された神義論

全能で善なる神が存在するにも関わらず、世界に悪が存在するのは何故か―神義論、あるいは弁神論が問うているのは、そうしたことです。確かに、極めて切実な問題提起であるに違いありません。

ただその門を潜るためには、クリアしなければならない問題があります。そもそも、善とは何なのでしょう?さらに、悪とは何なのでしょう?しっかりとした足場のない門は、自ずと崩れ去るのみです。

実際問題として、この正面切った問題提起は、なぜか矮小化の憂き目を見ることになりました。善人であっても報われないことがあるのに、悪人が富むのは何故なのか、といった具合に。つまり、人の世の因果応報に対する疑いへと置き換えられてしまったのです。

神義論(あるいは弁神論)というと、よく引き合いに出されるのが旧約聖書の「ヨブ記」ですが、そこで問題にされるのは、まさに因果応報律の揺らぎなのです。そしてその揺らぎを顕在化させるために一役買ったのが、他でもないサタン!

ヘソの曲がった私などには、こうした問題の矮小化こそが、何よりの悪の仕業であると思えてならないのですが…。

※念のために申し添えておきますと、私は「ヨブ記」におけるサタンを、「悪」と同一視する立場にはありません。神義論を因果応報律の揺らぎとして捉えている方々には、決してご理解いただけないことでしょうけれども。