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講評をメモしただけの日記

こういうのを読むのが好きで。
読んで自分用に部分転載メモしただけの日記です。
全部転載メモです。自分用です。

登場人物がどんな動作、行為をしているのかを頭のなかで思い浮かべ、どこを文章ですくいとれば的確に伝わるかを、もう少しだけ精密にジャッジするよう心がけてみてはいかがだろう。

くどくどと説明しすぎてはいけないが、ビシッと的確に描写するところはする。作者の脳内に浮かんでいる「絵」を、文章によって読者の脳内に映す/移すために行うのが、描写だ。そういう観点から、「なにをどういう順番で、どんなふうに書けば正確に伝わるのか」を考えるといいと思う。

穴もあるが、社会に対する登場人物の批判的眼差しと自由を希求する静かで熱い志が、作中に充満している。てんこ盛りの要素をギリギリのラインで統御して、読者を楽しませようとする作者の思いと力量も感じられる。忘れがたく、好きな一作だ。

文章がうまく、ときに詩的ですらあり、登場人物たちの心情の変遷がエピソードの積み重ねと絶妙に絡みあって描かれるため、説得力があった。

文章にいい塩梅あんばいの距離感と客観性があるというか、批判と思わせずに、実はさりげなく登場人物や事象を批判している視線が感じられる(その批判は、内省という形で、語り手である憂自身にもちゃんと向けられる)。それゆえ、すべての登場人物を多層的/多面的な存在として描くことに成功していると思う。人物の内面を丁寧に描写し、深く潜っていくだけで、大事件が起きなくても読者は心をつかまれ、小説は成立するものなのだと、改めて実感した。

ひとはいかにして、内面の傷から(完全にとはいかなくとも)恢かい復ふくすることができるのかが、登場人物同士のかかわりを通して丹念に描かれ、淡々としているようで根底にあたたかさの感じられる、いい話だなあと思った。

ストーリーの進展と、人物たちの性根・関係性がうまく噛みあっていないとも受け取られる可能性がある。

もっと具体的なエピソードを通して、早めに印象づけておく、というのはどうだろう。
 そうすれば、後出し感や、ややご都合主義っぽくも思える人間関係の距離の伸び縮みが薄らぎ、主人公のひととなりもより見えてくるし、「最初はこういう感じの距離感だったひととのあいだに、変化が生じた」というドラマ性が明確になるのではないか。

繊細かつ微細な心情描写を重ねて、ついに主人公の内面の核心が明らかになる、というタイプの小説の場合、エピソードの積み重ねと連動させて、関係性や心情の距離感とうねりを段階的に高めていくという「設計」を、緻密に築いておいたほうが効果的なことが多い。そのほうがストーリーに緊張感が生じ(つまり推進力が生じ)、主人公の内面の核心が明らかになる瞬間のカタルシスが大きくなるからだ。人工的すぎると思われるかもしれないが、そこを人工的じゃなく見せるべく、すべての作者が日夜磨こうと努力しているのが、小説技巧というものなのである。

大半のシーンにおいて、登場人物たちに寄り添いつつ、きちんとストーリーを構築しようという作者の姿勢が伝わってきた。これは、書くうえでものすごく大切な資質だ

競技物のセオリーとしては(特に、少々マイナーだったり特殊だったりする競技の場合)、まず最初にズバンと、どんな試合なのか、ルールはどういうものなのかを、文章を通して読者に伝える必要がある。主人公たちが到達、実現すべき理想の境地を、あらかじめ明確にしておくということだ。
 そのうえで、練習シーンをきちんと書く。「これだけがんばったんだから、上達するよな」という説得力を持たせるためだ。上達のための理論や理屈も、さりげなくまじえたほうがいいだろう。現状だと、徐々に上達していく具体的練習シーンが少なく、理屈も「重心の置きどころ」しかないため、主人公チームがなにを目指し、どうがんばったのかがあまり伝わってこない。「なんかよくわからんうちに、上達したんだなあ」と思えてしまって、読者が主人公チームを応援しようにも身が入りきらないので、段階的かつ理論的な練習シーンを織り交ぜるのは必須だと思う。

 二、視点人物の処理が洗練されていない。
 星印でだれの視点に切り替わったのかを表示しているうえに、表示基準の法則性が徹底されておらず、そのうち時間経過や場所についても、「二年後」や「車の中」と脚本のシーン設定のような表記になる。
 視点の切り替わりや、時間経過、どこにいるのかなどを、すべて文章(語り口、描写など)でさりげなく知らしめ、紡ぎあげていくのが小説だ。小説の技術と技法を先行作からもっと学び、分析して、自作に活かしていただきたい。

登場人物のだれかがストーリーの前面に出ると、ほかのだれかが引っこんでしまい、全員をうまく動かせていない傾向がある。性格が似ているがゆえに、作品内での役割分担がうまく機能しきっていないのだと考える。

心から書きたいテーマがそれだったなら誰と被ろうと構わないのですが、どうせだったら「こんなの私以外書けないでしょう」というのを見せてほしい。自信満々の、道場破りみたいな作品待っています。

映像化するのに向いている作品でしょう。ただ、小説として読んでいると、途中立ち止まって考えてしまうのです。

誤字、脱字、説明不足、矛盾点が多く気になりました。でもこれは、推敲を重ねれば改善されることです。気にしすぎて小さくまとまらず、まずは楽しんで書きましょう。続ければ、技術は後からついてきます。

ト書きのような説明ぬきで、文章を駆使して伝える工夫をしてください。小説なんですから、はしょっちゃもったいないですよ。

今の世の中、わからないことはいろいろな方法で検索することができます。疑問に思ったら、まず調べてみましょう。恐ろしいのは、疑問に思わないことです。自分で間違った知識を保存してしまっていると、正しいと思い込んでいるので調べもしません。たまに、自分の常識を疑ってみる必要があるかもしれません。

小説を書く作業も同じで、「競争」ではなく「宝探し」です。決まったコースを同じ条件で走って誰が一番早いかを決めるのではなく、全員が好きな場所を好きに掘り、ヒットという宝を探す。「誰が一番先に宝を見つけるか」や「誰の宝が一番大きいか」で「競争」の形式にすることは一応できますが、それは後付けで仮に順位をつけてみているだけで、本質的には他人が成功しようが失敗しようが、自分の掘っている穴には関係ないです。どこをどう掘るかは誰も指示してくれないし、他の人が宝を見つけたからといって自分の掘っている穴の先に何もないことが確定するわけでもなく、場合によっては全員の穴から宝が出たりもします。マイペースかつマイルール。そこが楽しいところでもあります。

まず書いている本人が楽しまなければ、読者を楽しませることはできないので。

本来ならば表現に工夫を加えて演出すべき「腕の見せ所」という場面なのに、よくある言葉や平板なイメージで済ませてしまうところが散見されました。雨が降っている場面で「ザー。」と書いてしまったり、「心の深いところをナイフでえぐられた気がした」等。本来なら書きながら立ち止まり、「この表現で本当にいいのだろうか?」と悩んで言葉を探すべき部分を、ありきたりな言い方で流してしまっているような感じです。また、短いセンテンスが多く、擬音・擬態語を多用する書き方は、横書きでスクロールさせるウェブ媒体には相性がよいのですが、縦書きでじっくり入り込みつつ読める「本」の形式だと軽く見えてしまいます。

ヤングケアラーの波留が一人で祖母の介護を担い、それゆえ進学先を変えようとまでしているのに、理解者であるはずの養護教諭は行政につながず、ただ園芸を勧めるだけ。職員室の教員たちも「暖かく受け容いれる」だけで何も具体的に動こうとしないのは教員失格でしょう。主人公たちを辛つらい境遇に置くために周囲の大人を木偶の坊にしてしまうのは悪手というべきで、同じ境遇にある子供たちに対し「行政は助けてくれない」「自分で立ち向かわなければならない」という嘘のメッセージを発する結果になることを避けるためにも、何か周囲の大人が「通常の手段で援助しようとしたができなかった」理由を示すべきでした。

一人一人の考え方の違いがはっきりしているので、同じものを見せてもみんな違う反応をするだろうな、と思えるような、立体的な人物造形ができていて見事でした。それでいて無理矢理なキャラ付けでわざとらしくなったりなどはしておらず、そこらにいる人っぽい、というリアリティもありました。

説明不足というか「何かあるんだろうけど、なんでこうなんだろう」と分からなくなる部分もありました。

文章がうまいので、現実的に考えてみるとおかしい点があっても「気付かない人は気付かないまま通り過ぎてしまう」可能性があり、そうやって現実にはありえないことをなんとなく雰囲気と勢いで通してしまう、というマジックリアリズムが可能なあたりが小説ならではなのでは、といった意見も出ましたが、少なくとも「本来ならこれは異常なことである」と「作者は分かっている」ような書き方がないと、読者は首をかしげてしまうでしょう。

問題は「はっきりしたジャンル小説ではないので、売り方が難しい」という点ですが、これは作者でなく編集部が悩めばいいことで、作品の質とは関係がないことです。ですので、あとは編集部のがんばり次第。読めば面白いけど分かりやすいジャンルがない本作を、どうやって手に取ってもらうか。腕の見せ所です。

過去の不幸で傷を負った女性が新たな出会いで癒され、また相手のことも癒していく……という、近年では凪良ゆうさんや町田そのこさんらが立て続けにヒット作を出している、ホットなジャンルです。このジャンルはまだ「公式に」呼び方が定まっておらず、「関係性もの」「夜明け小説」とでも呼ぶしかない状態(恋愛要素があるものとないものがあるので「疑似家族もの」では漏れが……)ですが、とぼけて明るいトーンのほっこり系、わりと壮絶な不幸系など、それぞれに市場があり、活況です。

このジャンルには「宿しゅく痾あ」とでもいうべき、このジャンルで書くならもう構造的に避けようがない問題点が存在します。それが「まず主人公が傷を負っているところから始まらなければならないので、主人公を不幸にさせる必要がある」という点です。このジャンルではほとんどの作品で虐待やDVが描かれますが、それらは本質的に、主人公を不幸にさせる「道具」として出すことになるため、現実の社会問題に対する真しん摯しさが足りないのではないか、という批判は常にありえます(加えて「泣ける」が魅力になる作品が多いので、「他人の不幸で気持ちよく泣きたいのか」と怒られます)。本作もその例に漏れずで、このジャンルの弱点を突きつけられる形になりました。

「大人は何をしていた問題」でもありまして、もう少し「主人公たちがなぜこの状況に陥ってしまったのか」の設定をちゃんと詰めるべきでした。そもそも主人公と相手役が「不幸なところから始まる」ジャンルなので「そういうジャンルだから」で済むといえば済むのですが、蔑ないがしろにすればするほど、やはり読者の中にノイズが生まれて没入しにくくなりますし、「虐待やDVを、『感動の話』のための道具にしている」という批判に抗しにくくもなります(※ミステリにも「犯罪を話のための道具にしている」という同種の宿痾がありまして、ミステリ作家が犯行動機やそれに絡む社会問題などを書き込むのはそのためでもあります……)。

加害者たる主人公の継父の人格がよく見えてこなかったり、千裕の母親にしてもそもそも身体的虐待をするような設定に思えなかったりと、「虐待者が必要だから出した」という、舞台裏が見えてしまっている感じになっています。

。題材として味覚障害を扱っているのに、この流れで「主人公は治りました。めでたしめでたし」にして終わらせてしまうのは、現実の味覚障害の患者に対しても、寄り添っているとは言えないような。ここでもやはり「不幸を話の道具として扱う」という、このジャンルの宿痾が出てしまっているのではないか、と思います。

文章に関しては表現力が豊かで、何より、「文章を読むだけでも面白いものにしてやろう」という意気込みが感じられました。リズムもよく、ものごとを丁寧に描写しようとしているのが伝わります。
 が、気になる点が一つありまして、どうも「攻めた比喩(直喩)」が過剰、という癖があるようなのです。
 ここで言う「攻めた比喩」とは「通常の言い回しでない比喩表現」のこと

工夫して自分独自の文章にしようとしていること自体は評価できるとしても、「メインディッシュばかり出てくるコース料理」では胃がもたれてしまうし、「全楽章アレグロ・アパッショナートの交響曲」では聴衆が疲れてしまいます。ややサービス過剰というか、もう少しさらりと流す部分がないと読者が食傷してしまい勿もっ体たいないところです。毎回ハイキックや胴回し回転蹴りを狙う必要はないので、適宜ジャブやローキックを交ぜましょう。

「いわゆるヒロイン側の性別のキャラクターを、ちゃんと人間として描けているかどうか」に関しては、具体的なチェック方法があります。「そのキャラクターが同性のキャラクターともちゃんと会話をしているかどうか」です。たとえば主人公の職場が女一男四だったとして、同僚の男の子たちがみんな主人公としか会話せず、男の子同士で会話をしていないなら、それは「愛でるために創られた不自然な男の子たち」ということになるわけです。ひと昔前のミステリにも「ひたすら主人公(年上の男性)とだけ会話をし、その場に他の女性キャラクターがいても一切会話をしない、若い女性アシスタント」がよくいました。勤務中のホステスだってもう少し「隣の人」と話します。

「サスペンスを盛り上げるためには、主人公に対する脅威を『同時進行で複数』用意するとよい」という、シナリオ作りのセオリーがきちんと実践されています。

「主役を食ってしまう脇役がいる」というのは、実は面白さにつながるケースが多く、問題ではないことが多いです

「怖い、しぶとい、気持ち悪い」を備えた『チャイルド・プレイ』のチャッキーみたいな暴れ方をしてくれます(注:本作はホラーではありません)。そのため後半、フレイが登場するたび「出た」「ギャー」「怖い怖い怖い」と、『青鬼』の実況でも観ているかのようなスリルで読めました。

『荒木飛呂彦の漫画術』(集英社新書)において『ジョジョ』の作者である荒木飛呂彦先生が「主人公が間抜けな行動をとるが故に困難になる、というのは、それ自体がマイナスです」と書いています。「主人公がうっかり携帯を家に置いてきてしまったがゆえに、いつまで経っても110番できずにピンチになる」といった筋運びでは、読者は「いやなんで携帯忘れてるんだよ」というツッコミが先に来てしまい、主人公のピンチを他人事だと思ってしまうでしょう。主人公が、読者が考え得る範囲の最善を尽くし、できれば読者の想定を上回るファインプレーをし、それでもなおピンチになるからこそ読者も「絶体絶命だ!」とハラハラしてくれるわけで、主人公に当然とらせるべき行動をとらせないことでピンチにする、というやり方では、うるさい読者から順に離脱していってしまいます

極端な話、現在の市場では「整合性は綺麗にとれているが、整合性のとれる範囲内で作劇したため小さくまとまっている作品」より「整合性はめちゃくちゃだが、とにかく派手で盛り上がる作品」の方がはるかに売れるし評価されるわけで、「面白いけど、そもそもこの状況が成立しないのだからルール違反でアウト」という読み方をする「うるさ方」の読者(私もそう)などは少数派なのです。そして実際、「うるさ方」であるはずの私も、最後の方は「この作品は『細けぇことはいいんだよ』で読むべき作品だな」と分かりました。

本作は完全にこの流れに乗っていて、それ自体はいいのですが、この「お約束」に乗るなら、面白く乗らなくてはならないわけです。

全体的に「取材不足」というキーワードが多かったように思えます。題材として出すものはきっちり調べ、読者の知識を上回りましょう(その上で不要なことは書かない、というバランス感覚も必要ですが)。これはセンス等と違って「誰でも、やりさえすればできること」で、確実に作品の質を上げられる安心のがんばりどころで、そういった「準備」の大切さが際立つ選考でした。自分の「好き」を読者の「面白い」に変えるためには、「俺が好きだからみんなも好きだろ?」と突っ走りつつ「これは果たして、初見の人から見ても面白いのだろうか?」と立ち止まる、冷静と情熱の両方が必要です。

自分探しの作品というのは、大抵、主人公が後ろ向きでウジウジと立ち止まっていることが多いですが、この作品の主人公は、憧れの人の真似をしようとする「一応、主人公なりの生きるスタンス」を持っています(それが良いかどうかはさておき)。少なくとも人生に対して前向きな姿勢が感じられ、その点が好感を持てました。この主人公の生き方や考え方は、現在の多くの「決められない若者たち」の内面を巧みに捉えており、読者によっては「これは私の話だ」と深く共感できるのではと感じました。

主人公が最後に行きつくのは「私は私にしかなれない」「私は私のままでいいのだ」という、言ってみればよくある着地点ですが、この作品はそこに至る過程が丁寧に描かれていて、その理屈がスッと理解できます。そういった意味で、数多くある自分探し系作品の中でも、数少ない「これは本物かも」と思える作品でした。

全体を通して、短編を読んだようなあっさり感や物足りなさがあり、それが大賞に推されなかった理由かもしれません。

この作品は、言葉選びが巧みで、心理描写や物事の捉え方にもハッとさせられる場面がいくつもありました。事件や出来事によって物語を進めていくことが多い私のような脚本家には書けない、小説家にしか書けない小説だなと堪能しました

最初に広げた風呂敷と、実際の中身にズレがあるように感じました。

早い段階で「この作品はこうやって楽しむものだ」という作品の方向性やルールを提示してもらえたら、もっと良かったと思います。

凶暴な大鳥と毒クモの脅威をどうやって切り抜けるのかと思っていたら、「相打ちした」という結果だけが描かれていて、肩透かしを食らった気分でした。その場面を見たかったです。たとえば、主人公がこの大鳥とクモに前後を挟まれて万事休すと思いきや、相打ちにさせた――といった描写を、実際に目の前で起きているものとして見たかったです。そういった「読者が見たいもの」を存分に見せて欲しかったなと感じました。

なぜそうなったのかというと、この作品は最初から最後まで「主人公・マイラ一人の視点」のみで描かれているからです。そのため、読者はマイラの視点でしか物事を把握できません。もし複数の視点で描かれていれば、「一方、イエリーはこんなことをしていた」といった「読者が見たいもの」がより明確に描かれたのでしょうが、その点は物足りなさを感じました

序盤は「これは何の話なのだろうか」と物語に入り込むのに時間が掛かりました。大きな理由として、主人公にドラマが足りないように感じました。ここでいう「ドラマ」とは、簡単に言えば「主人公の目の前に分かれ道があり、右に行くか左に行くかといった選択を迫られること」を指します。

味覚障害(およびその原因となった過去のトラウマ)に物語の比重を置きすぎて、話自体が前に進んでいない印象を受けました。ですので、この物語の幅をもう少し広げて、「辛い過去と障害を持つ主人公が、これから何をどうしようとする話なのか」という方向付けがあれば、より見やすくなったのではないかと感じました。

書き手の中には「ドラマを入れると安っぽくなる」とドラマを避ける方もいますが、それは「安っぽいドラマを書いてしまうから」であって、筆力があれば、上質で繊細な(ドラマとすら感じさせない)ドラマを描けるようになります。

気になったのは、書くことが楽しすぎるせいなのか「全部書いてしまう」ということです。たとえば、新入生の挨拶も全文書いたり、会話でも「おはよう」から「じゃあね」まで、人と人が出会ってから別れるまでをすべて描いています。必要なのは「省略」と「強調」であり、文章や会話の中でどこが最も大切なのかを見極めることです。不要な部分は削ぎ落とし、特に伝えたい部分を強調することが、書き手の腕の見せ所だと思います。

物語全体も「全部書いてしまう」せいで、一本調子な印象を受けました。まずこれが起きて、次にこれが起きて、さらにこれが起きる……と、一年365日、同じ温度で同じ調子のまま描かれているように感じます。そのせいで、せっかくの面白そうな物語が、あらすじを長く引き伸ばしただけのような印象になってしまうので、物語の展開にも「省略」と「強調」が欲しいと感じました。

キャラクター造形や物語の展開がどこか典型的であることも気になりました。たとえば、咲さきがちょっとしたことでアタフタする描写などは、一昔前の萌えキャラのように感じます。
 「書くことが好き」というのは、それだけで大きな才能ですので、今度は、書きたいことだけを書くのではなく、読者の視点に立って「どう書けば、読み手により伝わるか」といったことを意識すれば、作品がよりテンポよく、ダイナミックなものになるのではないかと思いました。

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こういうのを読むと、「小説ってむずかしいんだな」「なんかすごい書き手がいっぱいいるんだな」と思って自分が書くことにハードルを高く感じてしまう自分がいます。
でも、「わたしも書くことが好き」って言いたいな、とも思います。

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