母の若い頃の恋愛に関する不思議な話

 先年亡くなった私の母が死ぬ1-2年前に私に話してくれた不思議な話。

 母は昭和7年生まれ、東京都葛飾区の中規模のおもちゃ制作会社の家に生まれ、戦後、日本ドレスメーカーで洋裁を習得し卒業後はドレメで教官助手をつとめていた。
 ところが私の祖父、母の父にドレメに勤めているのがバレてすぐに辞めさせられた。当時は娘が自分の目の届かないところで働くのなどとんでもないという価値観があった。
 そのような先取の気質がある母はドレメをやめたあと鐘ヶ淵の自動車学校で免許を取ることにした。免許を取って祖父の会社で働くということで祖父にも許された。当時は自動車学校に通っている女性はその学校で3人だけで、一人は浅香光代。もう一人は母と同年代の女性で、母はこの女性とすぐに友だちになり一緒に講義などを受けるだけでなく一緒に遊ぶようにもなった。
 当時は戦争帰りの比較的若い教官が多かったらしくそのうち30代の教官となかよくなり、母と友人、教官二人のグループ交際が始まった。教官の車で海に行ったり、ボウリングに行ったりしたらしい。

 そういったグループ交際も1年がたち、そろそろ結婚ということも頭をよぎるようになったのだが問題は祖父だった。見合い以外で結婚させてもらえるとは思わなかったのだ・・・
 ところがここから悲劇が始まる。その教官が肺がんに侵されてしまったのだ、墨田区の病院に入院したのでしょっちゅうお見舞いにいっていたが残念ながら数カ月後に亡くなってしまった。
 
数日後
 教官の上司である自動車学校の社長から四ツ木の焼き場によばれた。社長も母と教官とのことは知っていた。
 焼き場は母の家から歩いて10分ほどのところにあった。
 母は当然そこで葬式が営まれるのだと思っておもむいたが、葬式はなく教官の身内も誰一人いなかった。どういうことだろうと思いながら、流されるままに、灰になった教官を社長と母が骨壷に納めた。すると驚くことに社長から「和田さん(母のこと)、この遺骨を遺族にもっていってください」といわれたのだ驚いた母は自分にはそんな資格はないと言ったのだが社長はきかずそれを母におしつけた。
困った母はしかたなく、叱られるのを覚悟で祖父に事の顛末をすべて話した。祖父は黙ってそれを聞き「わかった」とだけ言い、一緒に大森の教官の実家にいってくれることになった。母の運転で向かったのだが、そのとき一緒に行ったのが社長から連絡がいった、教習所の会社がかけていた保険会社の社員の女性だった。死亡保険をはらわなければならないので一緒に連れて行ってくれということだった
3人で死んだ教官の実家に行くと、70代の両親が丁重な挨拶をしてきた当時の70代というのは戦中戦後の栄養不足もあいまって非常に衰弱していて、年を取りすぎて足も動かなくなり大森から四ツ木にはいけなかったのだという。両親の代わりに荼毘に付してくれた母に非常に感謝して何度も頭を擦り付けるようにしてお辞儀をされたという。
 そこで唐突に保険の外交の女性が教官の両親に「保険金は100万円ですが、ご両親は50万で和田さんに50万でいいですか?」ととんでもないことを言い出したのだった。昭和20年代後半の50万は現在の1000万くらいの価値であり驚愕した母は結婚どころか婚約もして無いのにそんなものはもらえないと断ろうとしたのだが、外交の人とご両親に押し切られて結局受け取ることになったのだ。困った母だがかわりに祖父が受け取りその場は収まった。
20過ぎの女性がそんな大金を持つのは当時の常識では(現在でも?)ありえないのだから当然のことだった。
 月日が10年以上たち、当時としてはかなり遅い33歳で母は30歳の父とお見合い結婚した。父は大卒で祖父の会社の幹部候補だった。どうもそのときは跡継ぎにかんがえていたらしい。そのときに祖父は当時としては考えられないほどの持参金を母に持たせた。その金で葛飾区で家を買い、さらに父の実家も2階建てに改築したらしい。
 「そのお金は教官が死んだ時の保険金をおじいちゃんが運用したものなんだよ。お父さんにはいわないでね」


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