知って認めて、またはじめる。HSPの自分のこと。
「 優しすぎる 病気 」
たしか最初は、こんな検索ワードで調べたと思う。
退職直前、とても疲れていたのだけど、この疲れの原因が、ただ忙しすぎることだけではないように思えた。向いている、向いていないとかそんなわかりやすいもので、分けられる気もしなかった。
このころ、たしか1月後半か2月ごろ、わたしは、人と関わりあうことがもしかしたらそんなに好きじゃないのかもしれないと思うようになっていた。
どこでだれと会っても、「親しみやすい」「安心感がある」などと言ってもらえることが多かったし、はじめて会う人とも、どちらかといえば早く仲良くなれるほうだと思う。仕事も、意図せず広報的な役回りが多かった。
わたし自身、こんなふうに人と会うことでリフレッシュできていることもまた、自覚していたのだけど。
職場で起こる様々なこと、それこそ業務に関することだけではなくて、例えばだれかの愚痴を耳にすること、だれかの機嫌の悪さに触れること、そんなことは別に、自分のこととは切り離して、日常の1シーンとしてとらえていると思っていた。いたのに。
以前、どこかのnoteに書いたが、わたしは昨年の9月から心身の不調が出ている。
そのひとつとして喉の詰まりがあった。鎖骨のくぼみの少し上のあたりを、ずっと指で押されているような圧迫感。これが寝ているとき以外、四六時中続く。けっこうやっかいだ。
この喉の詰まりが、わたしが日常の1シーンだととらえていた、要はプラスにもマイナスにもとらえていないと思っていた、だれかの愚痴を聞くことや機嫌の悪さに触れること、なんなら、デスクが隣の人となにげなく会話を楽しむときでさえ、強く体に出るようになった。おかしい。
普段、自分が行っている当たり前みたいなものを疑いはじめたのは、このころくらいからだったと思う。
わたしが普段なにげなくしていたことは、もしかしたら得意なだけで、したいわけじゃないのかもしれない。
そう思うと、今まで自分の人生の中で積み上げてきたものは、いったい何だったのだろうと、少し途方に暮れた。自分のこと、もしかしたら何もわかっていなかったかのかもしれないな……
この記事でも書いたのだけど、学生時代、人とどう話せばよいかわからなくなったわたしが、もがいてもがいて手にした、人と積極的に関わる力。それを武器に、たくさんの人と深く関係を築くことができるようになったし、仕事にも大いに活きた。
いろんなこと、克服したって思ってたんだけどな。うまくできるようになっただけだった。心と体がこんなにも疲れてしまっていて悲しかった。とても。
トンカントンカン、一生懸命建てて形になってきた家が、急に更地になったような、そんな気持ちだった。
なんでこんなにも疲れるのだろう。
心が望んでいないことを、無自覚で続けてきてしまったから?
だけど、わたしはやっぱり人と話すことは好きなんだよな。
いくつも矛盾を抱えながら、ひとつのぼんやりとした答えにたどり着いた。
「優しすぎるのかもしれない」
そう思ったとき、ほんとうにそのまま、
「 優しすぎる 病気 」を検索ワードに入れて調べてみた。
HSP(ハイリー・センシティブ・パーソン)
はじめて目にする言葉だった。こんな特性を持って生まれてくる人がいるらしい。
こういうものは、いままでの人生経験の中で培われるものだと思っていた。
それこそ、なにか強いストレスにさらされてとか、トラウマがあってとか、そういった周りに敏感に目を向けないと生きていけない環境下で、自分を守るために、状況を良くするために身につけていく能力だとばかり思っていたから。
こんな特性が存在すること自体、わたしには思いもよらないことだった。
そうか。わたし、人と話をしているとき、あらゆるコミュニティーの中にいるとき、知らないうちに共感してたんだ。いろんな感情をもらってたんだな。
わたしは自分のこういうところを、どちらかといえばマイナスに、少ししんどく感じる瞬間が多かった。
仕事をしているとき、友人と話をしているとき、ひとりで買い物をしているときも、いろんなことをもっと大胆に、思い切ってやれればいいのにと、様々なパターンを頭で反芻したりして。
自信満々で、堂々と振る舞えるようになりたくて、たくさんの自己啓発本や、世の中にあふれる様々な成功者たちのノウハウに触れて実践したけれど、営業や広報的な仕事は、どうしても心から楽しむことができなかった。
ぜんぜん、自分の中に落ちないのだ。もやっとする。不安になる。
それでもそういった役回りの仕事で立ち回ることが多かったり、はじめましての人と比較的うまく話ができたのは、わたしが”社交的で人好きなタイプのHSP”、つまりHSE(ハイリー・センシティブ・エクストロバージョン)の気質が強かったから、という見方もできるみたいだ。え?なにこれ必殺技??
HSE自体、まだまだ文献が少なく、わからないことも多いそうだが、調べていくとどうやらHSPにも社交的なタイプや、刺激を求めるタイプと様々あるそうで、ひとくくりにはできないそう。そりゃそうか、にんげんだもの。
「こんなの、当てはめたもん勝ちやん」
「なんでもかんでも特性のせいにするな」
「大体の人は、多かれ少なかれ当てはまるやろ」
こういう意見が挙がるのもわかる。
実際、該当したわたしでさえ、まだまだそんなふうに考えているから。
そして、これにすべてを当てはめて生きていこうと思っているわけでもない。
ただ、この特性を知って、わたしはとても救われた。
自分を好きになる努力はたくさんしてきたつもりだけれど、自分が好きだと、はっきり言えない。
もうね、30年間で凝り固まった考えをガランと変えるなんてことの方が、めちゃくちゃ難しいんじゃないか。そう思えてしかたがないのだ。
また、過去の恋愛で、どうしても「最初のころのような敬意が払われないこと」がたくさんあった。
恋愛指南書などで、「相手に尽くしすぎるとナメられる」的なことがよく書いてあって、わたしはそれに該当するのかな?とも思っていたのだけど、ずっとなんとなく違う感じがしていて。
でも、HSPのことを知って合致がいった。
相手の居心地の良い空間をなんとなく察知し、知らないあいだに提供してしまってたのかもしれない。
それは、うまく言えないけれど、「尽くしすぎる」とは違う気がする。そう思いたいだけかもしれないし、けっきょく「本命コミュ障」なのかもしれないけれど。
でも、もしそうなら。
恋愛に限ったことではないから、無意識に相手を優先させてしまうこと、ちょっと怖いなと思うし、そりゃ疲れるか、とも思う。
ただ一方で、これってだれにでもできることじゃない。
だったら、今ないものに目を向けて頑張るより、こういう自分なんだからしかたがないねと、まるっと受け入れられたら、もっと楽に生きられるんじゃないか?
少なからずそのきっかけになった。
自分を認めて受け入れるということを、ちゃんと理解することができた気がする。
この特性を知って、自分自身と人生をともに歩いていくスタートラインに、やっと立てた気がしたのだ。
知って悲観するのではなくて、知ったから、この自分でどう生きるか。開きなおって、持ち前の直観力の向く方へ進む。進んでくたびれたら、「また張り切りすぎちゃったな」って気がついて認めてあげる。
きっと、いろんな意見があると思う。
けれど、自分の当たり前を疑って、はじめて知ることができたわたしのことだから。
ひとまず自分に、「頑張ってきてくれてありがとう。お疲れさま。今までごめんね。」って声をかけてあげたいと思えた。
これってすごく大きな一歩なんじゃないか。
とてもつらいとき、ついつい幸せになるために生まれてきたことを忘れてしまうけれど、ずっと一緒に生きていく自分のことだけは、だれよりもわかってあげたいと思う。それさえあれば大丈夫だと、心強く思えた。
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