冬の尊さ/もちはこび短歌(17)
路上にはネギが一本落ちていて冬の尊さとして立て掛ける
寺井奈緒美『アーのようなカー』(書肆侃侃房、2019年)
「路上」に「ネギが一本落ちてい」る。見て見ぬふりをしてそのまま立ち去ることもできる。でも、そのネギを拾う。しかも、ただ避けるのではなくて(もちろん盗むのでもなくて)、道脇の壁に「立て掛ける」。作中主体のやさしさが伝わってくる。
この短歌の景が作者の見た実景でなく、作者の想像によるフィクションだったと仮定しよう。少しコミカルな描写として上の句を思いつくことで読者の興味を惹く。やさしさあふれる行動として「立て掛ける」でほっとさせる。これらは想像で創り出すことももしかしたら可能だ。でも、四句目から始まる「冬の尊さとして」という喩えだけは、ほんとうにやさしい人にしか思いつかないのではないか、とわたしは感じる。ほんとうの心。やさしい作中主体を生み出せるのは、やさしい作者だけなのだ。
逆にこの一首が作者の見た実景だったとしても、「冬の尊さとして」は間違いなく作者オリジナルの感情だ。実景にしろ、フィクションにしろ、四句目からの十音に作者のオリジナリティが集中している。いわばここが見せ場であり、この歌の力点だとも言えるだろう。でも、作者はまったく力んでいないように感じる。その力加減が、道端の「一本」の「ネギ」を包み込むような自然なやさしさにつながっている。
わたしは、韻律、文体、語の選択、描かれた情景など、すべてに通じるこの歌のポピュラリティが好きだ。すべてにおいてわかりやすく感じるのは、日頃散文を読み慣れた「散文脳」にも、大きなギアチェンジを求めない文体によるだろう。でも、それだけでは歌は心に残らない。散文脳にスパイスとして効くのは、意外性のある上の句の場面と、「冬の尊さとして」という比喩なのだ。絶妙な配分のスパイスが多くの人の脳に、そして心にしみる。ユーモアに導かれたやさしさを、いつの間にか一首まるごと暗唱している。
寺井奈緒美さんのやさしさこそ、冬の尊さであるように思う。べたべたとはせず、さらさらとわたしたちの肩に舞い落ちる粉雪のようなやさしさ。それこそが尊い。
文・写真●小野田光
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「もちはこび短歌」では、わたしの記憶の中で、日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。
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