体感とやさしさ/もちはこび短歌(25)
都市はいつから都市なのか イヤフォンをすればなおさら響くビル風
櫻井朋子『ねむりたりない』(書肆侃侃房、2021年)
櫻井朋子さんは身体性の歌人だ。
自らの肉体の感覚そのものも詠むし、肉体が感じたことを心理的描写につなげることも巧い。そんな櫻井さんの歌の中で、「都市」の時間を体感したこの一首が好きだ。
主体は耳栓をするように「イヤフォン」を耳に入れる。歌集の中では労働の一連に置かれているので、もしかしたら会社からの帰り道で、仕事のことから考えをリセットしたいと思ったのかもしれない。いずれにしても「都市」の現実をシャットアウトするために耳に音楽を奏でようとしたのではないか。
でも、「都市」はそんなに冷たくはない。
「イヤフォン」を耳に入れた瞬間、吹き抜ける「ビル風」がイヤフォンに当たり、鼓膜には増幅された音として伝わる。「すれば/なおさら」のリズムが効果的だ。「ビル風」の音は主体に「都市」を思い出させる。その「都市」は喧騒からは無縁の、そしてオフィスにはない「ビル風」という外気の流動を作っている。その流動に触れて主体は気分をリセットさせる。「都市はいつから都市なのか」。
鼓膜で受けた体感が、都市の成り立ちを思うことにつながる。肉体に生じた感覚から大きな思考が生まれる。こういった体感の詠み方は櫻井さん独特のもので、わたしはそのスケールの大きさが好きだ。
『ねむりたりない』からあと2首、紹介したい。
泣かなくてもわたしはきれい剥ぎ捨てたコンタクトレンズに残る夜半の灯
母さんの自作だったと後に知るお伽話で燃えていた町
一首目、「剥ぎ捨てたコンタクトレンズ」に街の「灯」が映ることで、都会的な一気に都会的な広がりが生まれる。「泣かなくてもわたしはきれい」と奮い立たせているたくさんの人々がこの街にはいて、その数々の心が「コンタクトレンズ」の球面に光っていそうだ。
二首目、「母さん」から「お伽話」を聞かさせてもらうという極めて個人的な営みも、架空の「町」だとわかった瞬間、実在しないからこそ、まるでパラレルワールドで共有物として実在しているかのような大きさに変わる。
掲出歌に戻ろう。「都市はいつから都市なのか」。
櫻井さんの住む東京も、もちろん大昔は「都市」ではなかった。江戸の都となり、明治の新政府によって崩された都は東京となり、第2次大戦後のGHQによる占領や最初のオリンピック開催などを経て、次々と形を変えてきた。その変遷どの地点でこの土地は「都市」となったのか。この土地に「都市」となる前の時間があったことを、「ビル風」が吹く前の風があったことを、櫻井さんは思っている。自ら体感することのない時間を、今の自分の体感から想像する。そういったやさしさが読み取れる。
「都市」はそんなに冷たくない。それは、櫻井さんの歌がやさしいからだろう。
これからも櫻井さんの個人的体感が発火点になって、時間を遡ってどこまでも延焼してゆく、そんなスケールの大きな短歌が読めることを、わたしは楽しみにしてしまう。
文・写真●小野田光
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「もちはこび短歌」では、わたしの記憶の中にあって、わたしが日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。