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良くも悪くもないAI/もちはこび短歌(15)

文・写真●小野田 光

AIはかゆくならない雑念のないまま座る考える人
竹内亮「シンギュラリティ」(『半券』001・2019.9)

 今年の夏、一読してその魅力にからめとられた一首。それからというもの、わたしはAIの話題を耳にすると、この歌を思い出すようになってしまった。
 この歌を好きなわたしは、巷のAIについての話題が好きではない。AIが嫌いとか憎いとかいうわけではなくて、AIを語る時の「AIは人間にとって良いものか/悪いものか」「人間はAIを活かせるか/活かせないか」のような切り口や、そこにまとわりつく雰囲気が好きではないのだ。わたしにはAIが良いものなのか悪いものなのか判断する術がないし、なんだか、AIとはそういう結論で評価すべきものではない気がしている。人間が生み出すもの、大げさに言えば文明って、大体そんな感じではないか。たとえば人間はビルディングなんてものを考え出したけれど、果たしてこれは単に良いものなのか。縦長にたくさんの人を収納できて便利でも、マンションやオフィスビルの発明のおかげで一極集中を生み出した。ビルには空調が必要で、おかげで地球温暖化に一役買ってしまっている。でも、もうビルなしの世界は考えられない。
 きっとAIも人間が作り出した文明だから、ビルと同じ運命をたどるはずだ、とわたしは思う。すでになくては困るものになりつつあって、この世になじんできているが、それは良いとか悪いとか、便利とか不便とか、倫理的とか非倫理的とか、そういうことではない。文明という言葉が持つ魔力と、それを受け容れる惰性という、人類お得意の矛盾をはらんだお話なのだ。いや、そういうものに満ちているのが世界だし、短歌はそういう思いで詠んでもよいはずだ。
 この歌は、そのことが腑に落ちた作りになっているように、わたしは思っている。「AI」を善悪で判断する臭いがしないところがいい。
 意味的には「AIはかゆくならない/雑念のないまま座る考える人」と二句目で切れるのか、そこをつなげて「かゆくならない雑念」というパワーワードで攻めているのか、一見迷うところもいい。二句目で切れるとして、しょっぱなの「AI」に「←かゆくならない」が掛かり、「雑念のないまま座る→」が結句の「考える人」に掛かる。どちらも、「AI」の評価にはなんの関係もないことを言っている。「AI」は良いのか悪いのか、そんなことはどこ吹く風だ。ただひたすら「AIは人間ではない」ということを表しており、最後の「人」は逆にそのことを皮肉として強調している。
 構造的には、明らかに「AI」=「考える人」なわけで(意味的には「AI」は「人」だと言っているわけではない)、「AIという機器」について二度にわたり説明していると言える。どちらかが比喩になっているわけではなく(作者は3句目以降を比喩に近い意識で作っているのかもしれないが、短歌の一般的な比喩表現に比べるとかなり現実的だ)、同じものに対する説明を、わざわざベクトルの方向を変えて二度もするなんて、短歌の構造としては珍しくて(それを言いたいがために、意味の掛かりの説明に矢印を入れたのだ)、それもとても興味深い。
 また、音的にも「ない」がなんとなく無防備にリフレインされているが、このリフレインは感覚として気持ちいいのか悪いのかわからない。通常の気持ちよく流れるリフレインとは異なることは確かだけれど、わたしにはこの感じが好ましい。また、「座る考える」の部分も動詞連体形の二連発という離れ業だ。
 さらに語の選択という観点では、<過剰に詩的な歌語>は一切なく、「かゆくならない」という力の抜けそうな生理現象を持ち出しているところがいい。
 構造・音・語、どの要素を見てもその選択になにかズレがある。このズレが、世間の「AIは良いものか/悪いものか」という紋切り型を寄せ付けない力を生んでいると、わたしは感じたのだろう。以来、この歌を脳内に持ち運んでいるというわけだ。わたしは、事象を善し悪しで判断しない短歌が好きだ。そういう歌は、意外と少ないと感じている。

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