やさしい断片
文・写真●小野田光
前々回、映画や演劇、小説といった物語はよく覚えられないが、お気に入りのシーンだったら鮮明に覚えているというわたし自身の特性について書いた。これを読んだ友人からさっそく問われた。
「それって、チケット代や本代がもったいないと思わない?」
付け加えさせていただくと、わたしは物語というものを毛嫌いしているわけではなく、ストーリーという脈絡に身を任せている時間は大好き。だから、ストーリーのある映画も見るし、本も読む。記憶はすぐにシーンという断片だけになってしまうが、その断片に触れることが好きなのだ。ストーリーにあふれるたくさんの断片に触れられるわけだから、チケット代や本代を惜しいと思ったことはない(もちろん断片そのものが退屈なストーリーにはがっかりするけれど)。
でも、わたしはやっぱり短歌が好きだから、歌集を買う時がしあわせだな、とも思う。本代という観点からすると、なんだか得した気分になるのだ。
歌集は高い。1冊2,000円を超えるものも多い。それなのに得!?
正直に言うと、そんな気分を感じるようになったのは、短歌を始めて1年くらい経った頃からだ。その頃から、読むたびに、いいなあ、たのしいなあ、と思う歌集が増えてきた。ただし、読むのに時間がかかる。1ページにはせいぜい2-3行の短歌しかないし、小説やエッセイといった散文よりもフォントは大きい。それなのに時間がかかる。そこがたのしいのだ。
短歌は、断片である場合が多い。1首で長大なストーリーが完結しているものは、まずない。時空を超えるストーリーを想起させるような素晴らしい歌はたくさんあるけれど、そういう歌も31音に濃縮されるとある種の断片になる。
断片は濃い。短歌の断片は特に濃い。描写が愛憎でドロドロしていなくても濃い。
キャベツ色のスカートの人立ち止まり風の匂いの飲み物選ぶ 竹内亮
(『タルト・タタンと炭酸水』、書肆侃侃房、2015年)
秋の陽に先生のはげやさしくて楽譜にト音記号を入れる 東直子
(『青卵』、本阿弥書店、2001年)
淡い色に喩えられそうなこれらのやさしい歌も、わたしにはやっぱり濃い。きっと、読んでいるうちに自分の読書体験が濃くなってゆくのだと思う。
「キャベツ色」ってすてきだな。きっとふわっとした「スカート」なのだろう。そんなことを思いつつ、キャベツには同じ個体の中にも緑色の濃い部分や白に近い部分があることを想像する。この歌ではどの色だろう。「風の匂い」っていい匂いのような気がするけれど、どんな匂いだろう。そして、そんな匂いの飲み物とは、いったい現存する何かなのか。しかも、「選ぶ」ということは、その匂いを知っていてのチョイスなのだろうか。それとも、初めて飲むけれど、それはきっと風の匂いだとわかっていたのだろうか。
「秋の陽に」包まれる「先生のはげ」。きっとやさしくて、穏やかな先生なのだろう。そんなゆるやかな時の流れに「ト音記号」はふさわしい。でも、読みが濃くなってゆくと、「楽譜にト音記号を入れる」ということは、先生のはげはもしかしてバーコードはげならぬ「五線譜はげ」なのかな、などと考えはじめる。いや、チャーリー・ブラウンの額にあるみたいなクルっとした髪の毛が申し訳程度に生えているのかも。それなら、たしかにト音記号みたいだ。はげについての考察が止まらなくなる。
いずれの場合も、読み始めた時に感じたやさしさの本質は変わることなく、でも、やさしさの濃度は増してゆく。そして、どんどん登場人物たちを好きになってゆくのだ。
直感で絵を思い浮かべることができるのも短歌を読むたのしさのひとつだけれど、こうして「書かれていないこと」をぐるぐると想像しつつ濃く煮詰めてゆく時間も、またたのしい。こういう時間を延々と過ごしていたい。それが濃いやさしさに包まれた最上の「のんびり」だと、わたしは思う。そんな空気をもたらしてくれる歌集は、わたしにとってやっぱりお得な宝箱だ。
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