「変なおじさん」を放棄した男。
#アーカムアサイラム の中から綿密な計画に基づいて毎度 #バットマン を出し抜く知能犯 #ジョーカー を基本的には、過去の映画版からもコミックからも見ているので、一作目には #スコセッシ 映画の様な問題提起とエッジの効いたカタルシスがあっても、将来的に #アーサー が俺の知る悪役に後々なっていくとは思えなかった。
ただ面白いかどうかはともかく、本来のネタを場に応じ(感情的にだがw)ネタの #アレンジ 力は進化、ジョーカーとなる事でアーサーは一皮剥けたと確信できる、#コミック 的には希望に満ちたラストだった。
そこがコミックのキャラをベースにしつつも、スコセッシ的な #エピゴーネン に陥らなかった前作のいいところで、ただ今後があるなら工場の #有毒廃液 に落ちるか、明確に #グラスゴースマイル となるなどの、決定的な風貌の変化がなければならず、白塗りなだけの #ホアキン 版最大の懸念を持ったまま終わった。
ただ、#悪役 としてというより #芸人 としては、#アドリブ 能力も向上させた上で塗っているのは、芸人がキャラを演じ分ける上で可塑性があり、かつての #ジャックネイピア (所謂 #ジャックニコルソン )が人前に出る時は、バットマンに漂白された #コンプレックス なのか、肌色に塗っていたのとも重なった。
ホアキンの場合、自分がアーサー状態でいるのがコンプレックスな訳で、ニコルソンと逆である。何かの犯罪に及ぶ時、景気付けにある種の #ドラッグ に頼る様な行為に近い。
そこで思い出すのは、「#志村けんはいかがでしょう」等の、生放送的フリートークがある番組の局面でも、照れ隠しとアドリブ能力向上の為によく #カツラ を装着し #別人格 を演じていた #志村けん である。
舞台となる時代性、売れ始めたころの長髪、#愛煙家、当時の #ジュリー とまでは行かないが、鏡コントで重ねられる微妙な素顔の男前加減、孤独を愛する姿などが、前作を見ている時はダブり、志村のネガの様に見えてしょうがなかった。
そして公開の大反響の余韻がある中、志村は衝撃的だが、実にあっけない死(2020)を迎える。
これが決め手だった。
さらには志村も、ドリフ加入後の低迷期があるので、ダブり具合もひとしおである。志村は映画の感想を残して死ぬべきだった。
だが志村は芸人に向けた夢を腐らせず、パッションを維持しチャンスを掴み、のちにピン芸人としても超大物になった。
志村自身も自ら告白しているが、自らの暗い欲望の越えられない部分を侵犯する、一種の #ドッペルゲンガー としての性格を持っている為、志村にとっては他のキャラよりも「#変なおじさん」への思い入れが深い。
対して、ジョーカーという分身によってアーサーは吹っ切れ、そのアドリブは衝撃的ではあったものの、実際「笑い」という部分では滑っている。その後あふれかえったフォロワーの中に、笑いを期待している者が皆無なのも、芸人としては致命的だった。
そんな、芸人としての器のなさを理詰めで暴露し、彼がマーレイに指摘され激昂した、#シンボル にも実はなれなかったことを徹底して公の場で腑分けした続編は、成功できなかった志村が転落の果てに裁かれている様な見え方もして、とても悲しいものであった。
今回ほぼ同時に公開された、悪趣味でバカバカしい死後の世界が数十年ぶりに再び描き出された「#ビートルジュース」続編の様な死後を、志村が楽しんでいると思うことで、俺は辛うじて自分の気持ちを中和させた。
故にオリジナルで日本語吹き替えを担当していた #西川のりお なりの見事な筋の通し方にも感銘を受けたし、奇しくも #ティムバートン の #ビートルジュース 次回作だった #バートン版バットマン (1989)によって、アメコミのキャラを使っても、人間を描くことに深い考察が得られる含みまで、以降の作品に重大な示唆をもたらしてしまったはざまで、ホアキン版ジョーカーは葛藤しており(その中間のジョーカーに葛藤がなかったということではない)、同じ様に #ハリウッド 系エンタメを愛して止まず、「#変なおじさん」の演出にも、臆面もなくそうした作品へのオマージュ(思いつく限りでは、#ドレビン警部 との共演や、#エルム街の悪夢 、#トータルリコールなど)を次々ぶち込んできた志村との、芸人との器の差に泣かされたのである。
そもそもの話、一作目から心優しくも報われないアーサーが、ファーストルックの時点で志村に見えた理由は、色々外見を弄る芸人は、照れ隠しから演じている事実を教えてもらっていたからなのだった。間違いなく、日本人は、もっと前からアーサーを知っていた。