ミーツ五七五七七
規律の中にこそ自由はあるんじゃないかなという考えを持っています。
自由になりたい、自由になりたいと、ついつい何にも縛られない環境を求めてしまいますが、本当に何もなくなってしまうと何から手をつけたらいいのか分からなくなるのではないかという恐怖があるからです。
また、制限された狭い枠の中でどこまでの自由を生み出せるかという面白さと、成し遂げたときのかっこよさに酔っているという理由もあります。
その究極体の一つが、俳句・短歌ではないでしょうか。
数年前、Twitterを見ていたらあるツイートがバズっていました。それが
岡本真帆さんという歌人によるもので、この文面と共に、お湯をはった浴槽に冷凍いくらのパックを浮かべた画像が添付されていました。
短歌に全く関心がなかった当時の私は、始めは質の良いオモシロツイートとしか思っていなかったのですが、
「(あまりにも語呂がよすぎるな…)」と心にぶっ刺さっていたところ、この文面が岡本さん自身の作品のセルフパロディであることを知りました。
その元ネタというのが
この短歌を読んだ瞬間、思考を停止させていたのにも関わらず勝手に脳内で映像が流れました。
それはあまりにも激しく鋭く、そして傲慢で、これまで体験したことがない感覚でした。
「ほんとうに、あたしでいいの?」と言っている状況。なんとなく、この「あたし」が好きな人に問いかけている様子が思い浮かびました。
その直後の「ずぼらだし、」で自信のない不安な表情や、体が縮こまっているような姿を想像してからの、「傘もこんなにたくさんあるし」でトドメです。
ずぼらだから天気予報もちゃんと観ないのか、雨が降ると知っても傘を持って行かずに結局コンビニなどで安いビニール傘を買ってしまう。
玄関かな、玄関で話しているのかな、ということは好きな人が帰ってゆく前の会話かもしれない、そこで何か「あたし」を求める台詞を言われたのかな。
妄想に妄想を重ねて、情景をより具体的にしていきます。
五七五七七のたった31個の文字の羅列は「一文」という一本線に留まらず、どこまでもどこまでも深く、どこまでもどこまでも厚い物語を編み出します。
それは時間の切り抜きだったり、思考の抽出だったりと、作者のフィルターを通して見える世界を限りなく作者の主観満載な形で教えてくれます。
作者の心の中をストレートに感じることができるので、孤独に苛まれているときに読むと気が紛れるのですが、トラップもあります。
短歌の中に作者の恋人や友人、幸せな光景や満たされた気持ちなどが現れると「自分の為に作られた歌じゃない」と、より一層、独りであることを突きつけられるような気持ちになるのです。
別にどの歌も、私の為に作られたものではないのですけどね。
それくらい関係のない存在であるのにも関わらず、私自身の中身と対峙してくれる「短歌」に支えてもらった経験がたくさんあります。
特に岡本さんの作品は、難しい言葉を使わずにクスッと笑えるものや「あるある」と共感できるものが多い印象です。
私は教科書ぐらいでしか短歌に触れてこなかったので、今ってこんなにポップな感じになってるんだと驚きました。
ほんなら、岡本真帆さんの歌集『水上バス浅草行き』より、心を射抜かれた作品を紹介させていただきます。解釈は、みなさんのフィルターを通して見えた世界を自由に広げてください。
岡本真帆さんのツイートのおかげで足を踏み入れた短歌の世界は、時折やってくる呼吸のしづらい日常から魂ごと救い出してくれる、なくてはならない場所となりました。
自分でも短歌を作っていたこともあるのですが、なんだか媚び媚びで下心の見えるものになっていたのが恥ずかしかったので辞めてしまいました。
しかしやっぱり、私も31音の中で自由にスイスイ〜と泳げるようになりたいという気持ちがあるので、今年は短歌作りを再開してマイペースにやっていきたいなと思います。
他にも好きな歌人の方がたくさんいるので、またここでお話しさせていただきたいのですが宜しいでしょうか?それは勝手にしてくれ。
馬場光