かと言って100%の好意で優しくしてる訳じゃないからね
おにぎりになった途端に許せるおかずがある。
おかずというか、塩だけれど。
朝ごはんを食べようとしたら、おかずになるものが何もなかった。卵かけご飯をしようと思っていたのに、卵さえもなく、かと言って冷凍の唐揚げをわざわざ開封してまでチンする気分でもなかった。
化粧施し(ほどこし)の前にさっと食べたかったけれど一旦放置。結局時間がなくなって、塩おにぎりを作って持っていくことにした。
これでよかったのなら、初めからその程度の食事を済ませておけばよかったのにと思う。しかし、お茶碗にお米を入れて、その上に塩をかけただけのものを私はまだ「食事」とは呼びたくないし、それで満足できる気もしない。
じゃあなんで塩おにぎりではそんなことを感じないのだろうか。駅のホームで一人、真っ白な服を着て、まだ少し温もりの残った真っ白な塩おにぎりを食べているときにふと思った。
私はおにぎりのことがそれなりに好きで、街中で専門店を見つけると憂鬱に苛まれていても心が躍る。しかし、こと食事界においては、おにぎりは一つランクが下の料理だと思っている。あくまでも、食べ物界ではなく食事界において。
おにぎりは、手軽に必要最低限の品数(品数?)をとることができる効率のいい食べ物で、持ち運びもしやすい。時間や手間がかかっているほどランクが上だという訳ではないけれど、それにしても手軽すぎるのである。
そんなおにぎりの習性に甘えて、私はおにぎりを下に見てしまっている。簡単な食事ゆえに、こだわることもできるが、勿論こだわらないこともできるし、素人であってもそれなりのクオリティを出すことができる。だから「塩のみ」を許すことができるのだろう。
おにぎりはいつだって、私たちの元に降りてきてくれ、そして隙を見せてくれている。
本当は、おにぎり側が私を受け入れてくれているのにも関わらず、私がおにぎりを許しているのだと勘違いしてしまっているのかもしれない。本当に優しいひとは、その過ちさえも包み込むので、私は自分の間違った考えに、この瞬間まで気づくことができなかった。
馬場光