いのちをつくる、ごはん。
いのちをつくる。
そんな言葉が浮かんできたのは、森と畑の子どもキッチンプログラムの3期のことを考えていた今年の春くらいの頃。それに伴い5月からごはんづくりの会をいちあんさんで開催させてもらうことが決まったのもこの頃。
わたしは
何のために
子どもたちとその親御さんたちへ
おむすびや固定種の野菜のことを伝えたいのだろう。
そう自問してみたんだ。
自分を生きて欲しいんだよ。
即答していた。
より自分を生きること。
自分の可能性を信じ続けること。
自分を生きることを諦めないこと。
それが人生をどれだけ豊かにしてくれるか。
よろこびに溢れた日々にしてくれるか。
生きている!そう感じられる日々がどれだけ素晴らしいか。
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十数年前のわたしは自分を生きられていなかった。それがわかっていたけどどうしていいかわからなかったから苦しみながら流されて、むやみにもがいて自分の首を絞めて、いろんな人に当たり散らして、そしてまたそんな自分を責めていた。本当にしんどかった。どうしたらここから抜けられるのか、誰か教えて欲しかった。誰でもいいから救って欲しかった。
そんな時わたしに「いいんだよ。大丈夫だよ。」と言ってくれたのはおむすびだったし、わたしのひかりと共鳴してわたしの中にあったひかりを呼び覚ましてくれたのは固定種という野菜たちだった。
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「ひかり」この言葉がとてもわかりにくくしてる、って思った。
何か大事なことを、どう思われるか怖くて誤魔化して伝えてないか?とも思った。
ひかりってなに?
より自分を生きようとする時に発動するエネルギー体?核?
あ、そうか。
いのちじゃん、と。
生きていること、そのものじゃん、と。
「いのち」なんて言っちゃって、、、、もういいじゃん!
生命を長らえるために食べるのか?
「食べたものでできている」これは長らく栄養の話として言われてきた言葉。聞いたことある人も多いと思う。だけど現在は過去の栄養学なんてすっかり様変わりしていることを知っておいた方がいい。野菜の種の変化で栄養価はどんどん下がっている。さらに農薬によってマイナス要素は加わる。
「誰がつくったのか」「その人はどんな人(考え方・在り方)なのか」「どこでつくられたのか」「何を大事にされて育てられたのか」。そういったエネルギーがそのまま野菜のエネルギーになることを感じられるくらい、感性を敏感にすることの方が生命を長らえるんじゃないか、というのがわたしの考え。
そして生命を長らえることがそんなに大事だろうか。
社会が一変するような出来事が起きて、生命へ執着する人をたくさん見た。だけどそういった人たちの中で「じゃぁ、今を懸命に生きよう」と舵を切れた人がどれだけいただろうか。
「より自分を生きる」ことを選ぶというのはとても勇氣がいることなんだよね。
食べ方が生き方になる。
どんなものを食べるか、と同じくらい、どういう食べ方をしているか、が自分をつくっていくというのは、わたしが実感していることのひとつ。どんな思いで手をかけつくりだし、どんな思いをのせて食卓に出し、どんな氣持ちでいただくか。どんな有様でつくっているか、食べているか。それは全て自分の扱いとイコールで、それは全て生き方をつくっていくものになる。「食べる」という行為は毎日のことだからこそ。毎日無意識レベルに近い些細な積み重ねだからこそ、無意識に自分をつくっていく。逆にいえば些細な積み重ねのエネルギーを自分で生み出し、積み上げ、扱い方を調えていく。これこそわたしは自家発電じゃない勇氣の出し方に繋がる方法だと思っている。
だから「口にするものを選ぶ」「手のかけ方を調える」なんだよ。
頑張らなくていいから、頑張らなくても、自分を生きる方を選択できるようになる方法は毎日の積み重ね。些細なエネルギーを意識して変えていくこと。
食べ物は、体への愛。愛は、心の食べ物。
わたしの大好きな言葉です。
今を生きる。
「自分を生きる」
訳してみたら、毎日が生き生きしている、とか。豊さを味わえている、とか。朝目覚めがいい、とか。活力が高いとか。そんな感じだろうか。
「嶋田さんって人生楽しんでる感じがする」
って言われるんだけどね。(ありがとう)
闇もあるよ。影もあるさ。そんな時でも「くっそ〜」とか「なんでだよ〜」とか言いながら苦笑いしたり、泣き笑いしたり、してるわけ。肚の奥の方ではよろこんでいるのも感じられたりしてね。笑
十数年前にもがいていたわたしが、自分がわからなくてどうやって生きたいのかも見つけられなかったわたしがここまでこられたのは「自分を生きることを諦めなかった」から。
自分のいのちを自分で決めた使い方をしたい、ってずっと望んでいたから。
即効なんてないし、スピード感もなかった。
子ども達を悔いなく育てることをしながら自分も育て直すってなかなかのしんどさだったしね。
そんなわたしが「わたしは食べたものでできている。つくられていく」「食べ方は生き方。食べ方はわたしのわたし自身の扱い方」そう信じておむすびをむすび続け、固定種をつくり続け食べ続けたら、自分のいのちの使い方を自分で決められるようなった。
自分の在り方を調えながら生きてきて、ふと顔をあげた時、わたしの周りにいてくれた人を見たら「あ、もう大丈夫だ」って思えたし、わたしのいのちをよろこんで役立ててくれる人がたくさんいた。
信じてやってきてよかったと心底思ったよね。
だから「心がほどけるおむすび」と「固定種の野菜」というのは「いのちをつくるごはん」なんだよ。
それを生み出すプロセスで、どんなエネルギーを乗せるのか、つくり手の自分がどんなエネルギー体として手をかけるのか、というのがまた誰かのいのちをつくるごはんになる、ってこと。
いきなり大好き。
すごくいいよね。媚びもない計算もない。
まっすぐそのままの自分で今を生きる。
コンプレックスはなくならないし、不安になることだってまだまだたくさんあるけど、それでも正直に誠実に今ここでまっすぐ生きられている自分は、ちょっとだけ誇らしいし、周りを見渡した時、大好きな人しかいない世界が超絶愛おしいです。
より自分を生きられている、って幸せだ。