「推し、燃ゆ」を読んで
わたしを除いた家族全員が入り終わったあとのぬるいお湯に浸かりながら、宇佐美りんさんの「推し、燃ゆ」を読み返していた。自分でももう何回目かわからないほどの再読で、特に気に入っている箇所の文章は覚えるほどに読み返している。
なかでも推しという存在を「背骨」と表現した箇所の文章は鮮烈で、この本を読んでいる人がまず真っ先に述べるのは、この文章についての意見や感想だろう。もちろんわたしも例外ではなく、こうしてこの小説を改めて咀嚼しなおそうと思ったときに一番はじめに思い浮かぶのはその言葉だ。
自分の話をすると、わたしも所謂オタクと言われる存在で、現在はとある漫画に出てくる男二人組のキャラクターを推している。
毎週決まった曜日に更新される漫画は欠かさずその日のうちに読むし、特に推しが出てくる回は何度も何度も読み返す。推しが今までに発したセリフをまとめて紙のノートに書き起こし、そこから新たな発見があった場合や新たな解釈が生まれた場合には、140字以内に要約してXのフォロワー10人未満の鍵アカウントに投稿する。それでも足りないときは、短い小説を書くこともある。
「推し、燃ゆ」の主人公であるあかりと、わたし自身の推しに対するスタンスは、推しという人間を知るために、推しをまるごと解釈し続けるというところで一致している。でも、わたしにとって推しは「背骨」のような存在ではない。この先の漫画の展開によっては推しを好きじゃなくなる可能性も普通にあるし、あかりのように「炎上した推しのために人気投票でCDを五十枚買う」みたいなことができるほど、所謂「ガチ勢」にはなれない。
それなら、わたしにとって推しとはなんだろうか。わたしはどうして推しを推しているのだろうか。水のように冷めきったお風呂から出て体を洗いながらそれについて考えはじめたとき、わたしはひとつのことを思い出した。
わたしには発達障害があり、そのうちのASD(自閉スペクトラム症)の特性からか、昔から自分の気持ちがよくわからない。今自分が何を思っているのか、何が苦しいのか、何が好きなのか、それをいつも掴み損ねたまま手放してしまう。自分の苦しみをうまく認識できないから、幼少期から抱えていた劣等感や自己否定感は、双極性障害へと変化した。自分の気持ちもわからないから他人の気持ちもわからず、失敗ばかり積み重ねてきた。ずっと出来損なってきたから、自分のままで考えたり話したりするのも怖かった。
そんなわたしをほんの一時救ったのが、二次元のキャラクターだった。他人の気持ちがわからないままでも、他の誰かとして推しの人生を書いているとき、何かを掴んだと思える瞬間がほんのたまにある。だいたいそれは一〜二文の短い文章なのだけれど、そのとき書いた文章には普段わたしが世界をどう捉えているか、推しという存在をどう解釈しているかが如実に表れていて、わたしはずっとその一瞬がほしくて小説を書いていた。
漫画を読み、セリフや表情、顔つきなどから、推しに関する情報を集められるだけ集め、その情報を解釈・考察・妄想に分けて、自分の中の推し像を形作っていく。その過程で自分が推しの何を見ようとしているのか、自分が推しに何を求めているのかを知ろうとするとき、まるで木の中から自分の輪郭を彫り出し、自分自身をも形作っているように思う。そうすると、このときの推しは鑿や槌だ。わたしの中にあった推しへの不都合な願望の押し付けがまざまざと彫り出され、白日のもとに晒される。それが良いことにしろ悪いことにしろ、わたしにとって推しを推すこととは、自分を受け容れることだった。
わたしはいつだって、推しという存在を通じて自分自身を見ていたのだ。
お風呂場を出て、体を拭き、服を着る。紙全体にほんのりと湿気を含んだ本を閉じ、わたしはわたしの推しを思う。