焼肉
昼に焼肉をするのはちょっとした背徳感があってとてもドキドキする。どうしたってお酒がついて回るため、「今日は仕事をしないぞ」という強い覚悟と気概が必要だ。まさに、昼焼肉とは命を削った戦いなのである。
そんな意気込みで昨日の日曜日、我が家は昼焼肉に臨んだ。「もしかしたらキムチの注文があるかもしれない」「急に誰かに呼ばれるかもしれない」「家族に何か万が一のことがあるかもしれない」などと、様々な不安が頭をよぎったが、それでも昼焼肉を決行したのだ。そこまでの意気込みで臨んだのならば、何がなんでも楽しまなくては意気込んだ甲斐がないというものである。
そう言えば、冬季オリンピックが長野で開催された中学1年生の頃だったであろうか、あの時も家族で昼焼肉を楽しんだ。
おかげさまで、丈夫な体だけが取り柄の私は、小・中学校をほぼ皆勤賞で学校に通っていた。多少の風邪などでは学校は休まなかった。家で寝ているよりも学校へ行った方が楽しかったからだ。そんな私でも学校を休まなければならない日があった。インフルエンザに発症すると感染拡大を抑えるため、登校は強制的にストップさせられたのである。
今では考えられないのだが、インフルエンザに発症した苦しみよりも、暇なことの方が苦しかった思い出がある。どうしてそのマインドを持ったまま大人にならなかったのか。そのマインドが変わった分岐点に戻って「もう少し頑張れ!」と自分に言ってやりたい。
中学1年生の頃、丈夫な体だけが取り柄だった私の体にも、インフルエンザウィルスの侵入と増殖を抑えることはできなかった。しかも、当時は今の新型コロナの時代とは違い、マスクをしたりと感染予防もほとんどしていなかった時代だ。無論、インフルエンザウィルスは瞬く間に家族に広まり、姉と妹ももれなく感染。兄弟全員が学校を休むこととなった。実家は自営で床屋を営んでいるため、平日に家族5人全員が家にいたことになる。
インフルエンザに発症したら、症状が良くなってから2日間は学校を休んで自宅待機を強いられる制度になっている。ほぼ同時期に発症した3兄弟は何も症状がなく、ただただ自宅で待機していることに飽き飽きしていた。
その気持ちを汲み取った母親がお昼時、おもむろにホットプレートを用意しだし、何やら準備をし始めた。実家でお昼にホットプレートを出すときは大体「焼きそば」と相場が決まっている。フライパンで作るよりも一度に大量に作れて洗い物も少ないと、母親の編み出した技である。自分の母親ながら、なかなか粋なことをしてくれるものだ。目の前で作るという「ライブ感」も味わえてなかなかいい作戦だと思う。
しかし、どうやら焼きそばではないことは材料を見てわかった。と、次の瞬間、母親が「焼肉しよう」と言い出したのだ。ちょうどお客様もいなかった父親も奥に上がってきて、平日のお昼に家族5人でも昼焼肉パーティーが始まった。流石にお店があるため、両親がお酒を飲むことはなかったが、気分的には飲めや歌えの大騒ぎ。37歳になった今でもその光景はとても印象深く脳裏に焼き付いている。
焼肉も最終段階の焼きそばに移行しようかというころ、テレビ画面には長野オリンピック、スキージャンプ団体の映像が流れていた。最後の最後、船木の逆転ジャンプで日本中が沸いた中、我が家では焼きそばのジュージューという音が流れていた。
「インフルエンザに発症した」という忌々しい記憶が「家族で焼肉食べながらオリンピックを見た」というなんとも楽しい記憶に変わったのだ。足が折れてもいいと最終ジャンプに臨んだ船木の如く、昼焼肉という戦いに果敢に挑んだ両親を大いに尊敬している。