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苦痛と絶望の現実を生きる君へ

ふとした瞬間に感じる孤独


街中で溢れる音楽は、妙に明るくてそれが世の中の多数派に限定されたもののように思えてしまい、自分が孤立を強いられている感覚を抱くことがある。

街中で賑わう人々の笑い声や楽しそうな声が聴こえてくるのが苦手で苦痛に思うことがある。

社会は多様性を推すが、僕が見ている現実はどこか
【最低限ここまでは人間としての正常ラインなのでこのラインには達するように在りましょう。】
という平均値が存在していて、そこに属せないと異常者のような
扱いを受けてしまうように思えてしまい
『僕なんかが生きていていいのだろうか。』
と思ってしまうことがある。

周りの人間が器用に生きているのをみると、
『人生何周目なんだろう。』
と思ってしまうくらい自分の無力さや不完全さに絶望することがある。
他の人があたりまえにこなせることが僕にはあたりまえに
こなすことができないと自信を否定してしまうことがある。
だから、僕なりの努力をするがその努力の先にあるのは希望ではなく、
【これだけやってもまだ人並み】
という絶望である。

多くの人々が自己の幸福のために他人を騙したり、傷つけたり、傍観しているような感覚を昔から抱いており、そして不可抗力ながら僕もこういう人間の1人にならざる負えない世界に憎しみと怒りを感じることがある。

期待すればするほどその後に大体裏切られるし、頑張れば頑張るほど過去の自分を裏切ることやこれまでの実績が崩れることに恐怖し、歯止めが効かなくなることもあるだろう。

他人を平気で騙し陥れる人々もいれば、自身の幸福のために自分よりうまくいっているように見える誰かを誹謗中傷しては、その瞬間の快楽に浸る人々もいるだろうし。

自分がどうしようもなく好きになれなくて、生きることがどーでもよくなってセルフネグレクトになる人々もいる。

就職難だからという理由で大学へ進学したが奨学金を全額借りざる負えなくなり、40代近くまで返済を余儀なくされたにも関わらず、入社した企業では既得権益が出世を阻んで一向に給与が上がらず、
【頑張ってきたのに報われなかった】
と絶望する人もいるだろう。

いや、
【いつか報われるなんていう妄想を抱かせた世界がよくなかった】
というべきだろうか。

今見ている世界では奪い合いと諦めと強欲が蔓延っていて、僕は、それらからなるべくどのようにうまく回避できるかを考えながら生きるように努めている。

そういう世界なのに、街中で目に入るコンテンツはどれも明るさや眩い光を想起させるものばかりでそれが僕にとっては苦痛に感じてしまうことが多々ある。

そしてそれに共感している人が近くにいると僕は自分が生きている現実とその人が生きている現実のギャップを感じてしまい、辛く感じる。

生き辛さの根源

これは推測の域に留めておくが、なんとなく人類は機械的になっているような気がする。

インターネットや人工知能と対話していると、当然それらの考え方を僕たちは吸収するわけだが、このプロセスを何十年と繰り返したら人類は、機械的な考え方に自ずとなってしまうのではないかという風に私は考えている。

いわゆる、誰かから相談されたら合理的な提案ばかりをして、それでも困っている人に対しては、
【こうすればうまくいくというレールがあるにも関わらず行動をしないあなたが悪い】
など自己責任論に持っていくといった人間性を助長しているように見える。

でも、現代のようにインターネットや人工知能が発達する前の人類というのは、相談されたら合理的な提案をいきなりするようなことはせず、
『そっかー、辛いよね。分かるよ。』
のような温度感からスタートするものが大半だったと考えており、合理的な提案をいきなりする人は少数派で空気読めない人のような扱いを受けたはずだ。

そういう意味では、インターネットや人工知能の普及についてこれなかった人類にとって、誰かに救いを求めても合理的な回答しか返ってこない世界というのは苦痛の温床であり、これが生き辛さの根源なのではないかと私は考えている。

もっと言えば、この進化についてこれている人類にとって、ついてこれなかった人類というのは
【インターネットが示す合理的な提案を1つずつ実行すれば解決するのにそれができない駄目な人】
であり、こういう考え方の蔓延も生き辛さの1つと言えるのではないだろうか。

人間にあって機械にないもの


相手の痛みや悲しみを想像したり、完全に理解できないけど相手が見ている現実に寄り添おうとする力っていうのは、人間特有の能力だと僕は思っている。

この能力は、合理的な考えからは決して生まれないものだと考えており、やっぱり失われてはいけない能力だなと思う。

でも、人類が機械的になればなるほど、感情を考慮しない考え方をするようになるからその分傷つく人も増えるんだろうなと思う。

このような、相手の痛みや悲しみを想像し、あえて不合理な行動をするというのは今の現代に求められているように思える。

しかしながら、不合理な行動を取れば取るほど既得権益やこれまで安全地帯にいる人たちにとって不利益に働いたり、地位や名誉を脅かすことになるので、それなりに富がある人からしてみると人類全体は、今のまま何も考えず何も疑問を持たずにいてくれた方が嬉しいのかもしれない。

結局、僕らはどこまでいっても孤独


現実は、人それぞれ異なるものだと考えている。

楽しくて幸福に満ちた現実を今見ている人もいれば、どうしようもなく孤独で、苦痛と絶望の現実を生きている人もいるし、絶望とまではいかないけど、なんかどことなく空っぽな感じがして
『なんで生きてるんだろう。』
とか思っちゃうけど、そういう時は自分なりの気分転換をしてなんとか凌いでるみたいな絶妙な現実を生きている人もいると思う。

こんな風に、現実って人の数だけ存在していて、僕らが完全にそれらを互いに理解し合うことは不可能だから、最終的に行き着く場所は孤独だと割り切ることは重要だと思う。

ただ、どういうわけかこの世界では、(最終的に行き着く場所は孤独であるにも関わらず)孤独であることに対して、よくない印象を持つ人が多いみたい。

だから、あえて伝えとくけど、最終的に行き着く場所は、みんな孤独なので、今または今後あなたが孤独を感じたとしてもそれによって自分は異常だとか変なんじゃないかとか思う必要はない。

それでも辛いと感じたなら自分と似ていて信頼できそうな人をいろんな手段で探し、助言をもらいつつ気を紛らわせばいいんじゃないかなと思うけど、人間不信だったりしてそうもいかない人もいると思う。

そういうときは、文章や絵や音楽といった芸術に自身の目に映る現実を飽きるまで投影するといいと思う。
(なお、そんな作品は教えてくれれば見ます。)

最後に

これを読んでいるあなたが今、苦痛と絶望の現実を生きているのであれば、似たような仲間がいることだけは忘れないでいただきたい。

最後まで読んでいただきありがとうございます。
曲作っているので、よかったら聴いてくれると嬉しいです。


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