habit 短編小説3610文字
-亜子-
製造番号、品質管理番号、消費期限。
目の高さまでコーヒーフレッシュナー 白い円柱体の容器 を仰々しく持ち上げて底面を確認する癖は治らない。
そう、癖は治しようがないのだ。
ついでにあのひと-吉野啓太-の遅刻癖も治りそうもない。
ブレンドコーヒーに液状ミルクを半分だけ流し入れる。
スプーンで渦を溶かし切る前に、この座り慣れた座席のブランケットを直した。
カフェテリアの窓際は少しひんやりとして、だけど頭を冷ましてくれる場所ではないかもしれない。
啓太からの連絡はないかと、スマートフォンの液晶に目をやる。
ホームの待ち受け画面を表示させる。待ち合わせ時間から間もなく一時間半が経とうとしていた。
-啓太ー
クライアントとの商談が終わり、スイス製の腕時計に目をやると待ち合わせ時間をとうにすぎていた。
啓太はゆっくり先方の事務所のビルへ一礼し、地下鉄へ続く住宅街の路地を歩き始めた。
ネクタイを緩め、第一ボタンを外した。ブリーフケースが左手に食いいる。
メトロの階段を下って行く時の風圧でジャケットの裾がはためいた。
さすがに三月とはいえ、トレンチコートを着てこなかったのは失敗だ。
…何とかこの案件は通りそうだ…
電源を切っておいたスマートフォンに電源を入れる。
本社へ簡単な経過報告の連絡を入れるとよくやった、と上司のねぎらいが左耳に流れた。
これでいい。
下り電車を数本見送ってから、啓太は亜子からの連絡がいつも通り必要最小限な事に苛立っていた。
長いウェーブの髪と、清潔なワンピースがあのカフェの窓際で待っていると思うと商談よりも滅入るのは何故だろう。
-亜子-
「こちら、寒くないでしょうか」
行きつけのカフェ、『ant rosa』のオーナーはいつものこちらが恐縮してしまうくらいの間合いで声をかけてくる。
「いいえ大丈夫です…いつもお気遣いありがとうございます」
トレーに新しいレモン水-亜子の苦手な氷は入っていない-を乗せたオーナーはこう続けた。
「いつもうちのミルクカップの底を見ていますが…何が書いてあるのですか」
今日この日初めて会話らしい会話をした気がする。
曇り空の平日、客足はまばらでこんな奇行ばかりしている客に好奇心が湧いたのだろう。
駅からは少し遠いが、外観や内装、風味、接客と申し分のない店なので啓太との待ち合わせに利用していた。
「私も意味はよくわからないのですが、数字の配列が一桁から二桁記載されているんです」
「何の数字なんでしょうかね…いつも一生懸命見ていらっしゃるから」
「ただの癖ですよ、意味のない癖ってありますよね」
「はい、そういう癖に限って治らなかったりする」
そう言って何故かオーナーは破顔してトレーからグラスをテーブルへと滑らせた。
短いが大きな爪の指先と掌。テーブルクロスが深茶色なのでぼんやりとグラスの中身の水が浮いて見えた。
「ごゆっくり」
ボサノバのバックグラウンドと溶け合うように言い残すと、白い紫陽花のドライフラワーを越えたキッチンへと戻ってしまう。
ブレンドコーヒーの大きいカップに新しいレモン水を持て余した亜子は、そろそろ追加注文をしようと思った。
■■■
ー啓太ー
オフィス街のあるメトロの路線図の網目中央から10分程下り列車に乗ると待ち合わせ場所の最寄駅に到着した。
しかし、液晶を見ると既に待ち合わせ時間から二時間が経とうとしていた。
楓の街路樹を縦に抜ける。平日の15時近くは子供連れの主婦や学生が夕刻に向けて準備をしている時間帯で、啓太の様な業種のサラリーマンは移動に充てる時間だった。
三月の商業施設は慌ただしくて売り手も買い手も何かを惜しんでいるようだった。
駅から何本目かの信号で歩道の角を二度曲るとリノベーションされてる洋館がある。
オリーブの葉が茂る鉢植えの横、アイビーの蔦が絡まったドアの側に大きな水槽の様な窓がある。
亜子だ。
窓際に座る光景はうんざりするほど同じだが、いつもと様子が違う。
曇り空で自身が反射しているのを睨みつけながら注意深く観察した。
右手の親指と人指し指で小さなコーヒーフレッシュナーをつまみ、右目ギリギリまで近づけている。
左目はそれに注視されているのでやや寄り目のような形になるが、たまにミルクを顔から遠ざけるので黒目のピントが和らぐ。
やや厚い唇は横真一文字に結ばれたまま開くことはない。
左手はソーサに添えられてネイルのホログラムが光っている。
ベージュのワンピースの内肘に微かにシワが寄るくらいの曲げ具合だ。
しかし、右肘のそれは明らかに違うドレープを描いている。
うつむいている筈の顔は顎を斜め前に出し、ミルクの方角へ向かっている。
長いウェーブヘアもそれにつれて斜め下へ床に向けて落ちていた。
数秒経ったろうか。
啓太には何分にも何十分にも感じられたがそれくらいの時間なのだろう。
亜子がミルクの小さなケースの蓋を開け、中身を全て飲み物の中へ注いだ。
俺は亜子が今何を飲んでいるのかを知らない。
大きな瞳と長い睫毛がミルクのケースを捉えている間、啓太は瞬きもせずその場から動けなくなっていた事に気がついた。
喉がカラカラに乾いていた。
重い木の実が鳴るドアを開けて店内へ入ると碾きたての珈琲の香りと、焼き菓子の香りがした。
店の外側には大ぶりな植物が置いてあるが店内にはドライフラワーや小ぶりなアレンジメントや鉢植えが並ぶ。
「いらっしゃいませ」
整った顔の店員がやってくると待ち合わせの旨を伝えようとするが困った様な笑みで亜子の席を見る。
…何が言いたいんだよ…
啓太は苛立ちと共に気が重くなってますます帰りたくなった。
一枚革のプレーンなシューズが木の床に響いていくのを頭で感じながら窓際の席へ向かう。
ー亜子ー
「すみません、同じものを追加で」
「かしこまりました ブレンドお持ち致します」
レモン水を二口つけてから低く響くテーブルに置かれたカウベルを鳴らし亜子は告げた。
真鍮とレモンバームの小瓶に囲われたカウンターにオーナーが戻って行く。
先ほどまでは翌日の焼き菓子の下ごしらえと店舗への補填作業を同時進行していたようだ。
小麦粉がバターで蒸される香りが漂っている。
常温のレモン水を啄ばんでから、亜子は啓太と過ごした二年余りの日々を思い返していた。
こうして待ち惚けを食らうようになったのは半年ほど前からだ。
別に思い当たる節などない。
ただ互いの想いが少しずつずれ込んで啓太の表情が曇ってゆくのを止められないだけだった。
その事実が亜子を少なからず苦しめていたことも事実だったが ー。
今日は啓太の方から仕事を半休するという誘いでここへ待ち合わせることになった。
そしてここ半年いつものように圭一は待ち合わせ時間には現れなかった。
ため息を奥歯で磨りつぶすと、レモンバームの要塞の方からコーヒーの香りが運ばれて来た。
豆を挽いている音を認識する。
カウンターの中は観葉植物やアレンジメントや雑誌などが連なってオーナーが死角になっている。
それでも器具や食器を用いて珈琲を作る時の音は何故か亜子を安心させた。
「お待たせいたしました」
白いシャツに黒のベストとパンツを併せたオーナーが紫陽花の向こう側から姿を表す。
ブレンドをテーブルへ置いて行く。
レモン水の交換は最早そっけない。
亜子はため息を悲しい笑いに変えて言った。
「癖を治すにはどうしたらいいのですかね」
唐突な亜子の問いにオーナーは少し眉を寄せて新しいおしぼりを古いそれと交換させた。
暫く窓から見える向こう側の歩道にある楓の幹を見いやってから考えを示す。
「…治すというよりは…受け入れた方がラクになるかもしれませんね」
「この癖って受け入れちゃってもいいと思いますか」
「意味が無くて奇妙で治せなくて癖ですから…治そうと思うと余計に苦しみますよ」
先程とは違い、眉を下げ柔らかく口角を上げただけの笑みを残すとゆっくりと紫陽花の中へ消えてゆく。
カウンターからは食器を洗う様な音が聞こえ始めた。
窓の外側の雲の層は、花びらの渦の様な雲を撒き散らしては散ってゆく。
楓の大きな葉や幹が棘の様に額縁として四方を横切ってゆく。
亜子は、大きなブレンドのカップを軽く手で覆った。
いつも添え付けられている小さな陶器にはいったミルクを無視し、テーブルの傍らにある開けっ放しの瓶の口からコーヒーフレッシュナーを取り出した。
ーこの数字はまるで…思い描いている二人の関係とは間逆の数字みたいだわー
底面に記載されている二桁の数字を見つめる。
啓太は時間を守らない…それは恐らく今後も変わらないだろう。
私が一番困らせてしまう…そして私が傷つく、そんな人。
この店のブレンドは毎回本物のミルクが付いてくる。
なのにオーナーはフレッシュナーを使うワガママを笑って許してくれる。
亜子はコーヒーフレッシュナーのミルクケースをしばらく眺めたあと封を開け、ブレンドコーヒーの中へ中身を流し込んだ。
■■■
A creep numbered 07.
END
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