【日本国記】 第二章 土方水月
【日本国記】第二章 1・日本とは世界で最も特殊な国である ー古くて新しいー 土方水月
「地球」はその名の通り球体である。
そのため昼間の太陽は朝から夕の日の出から日の入りまでを等分し(日本では陰暦を用いていた江戸期には干支で時間を表し、その表す時間は季節によって変わり、等分ではなかったという。)、昼間の時間を把握するための手段となった。夜の時間を知るための手段は月や星々であった。星々は方角を知るための手段となり、季節の到来を知るため手段となった。
エジプトの「クフ王のピラミッド」は墓ではない。大きく、遠くからも見える暦であった。その影から日時計としての役割も果たし、一日の時間を知ることもできたし、さらには各面の中心には季節を知らせるための“中心線”があったという。その面の片方の半分だけが光ることにより、夏至であったり冬至であったりを知ることができたという。そしてさらには、そのスフィンクスの位置と方角は、星座の位置から地球の公転のみならず銀河系における太陽系の公転も計算されていたという。
誰がそんな計算をしたのか?
神である。その神は日本のいう神とは少し異なる。日本では人も死んだら神になるが、ここでいう神は唯一の神である。ユダヤ教の「ヤーベ」であり「エホバ」であり、キリスト教の「エル」であり「ゴッド」、イスラムの「アラー」である。
そしてまたメソポタミアの最初の神であり日本でいう最初の神でもある。
古事記での日本の最初の神は「アメノミナカヌシ」であるが、本当は「無ム」の神。淡路に洲本というその名ににちなんだ地名が残る。淡路は地殻変動により北東から南西に走る断層がずれてできた。同時に琵琶湖も同じ時にできた。そのずれが平行で、同じようにずれたため琵琶湖と淡路島は同じ形となった。そのためイザナギとイザナミにたとえ、琵琶湖が女性で、淡路島が男性となった。そんな地殻変動を、古代の人たちは知っていた。そんな数百万年も前のことも知っていたのはなぜか?それは口伝えによる伝承によってであった。
その神の名は「スモトフミクライヌシ」という。伝承によっては少しその呼び名が異なるが、宇宙が何も無かった時に唯一いた神であった。その唯一の神にはそのとき当然、名前はなかった。誰も呼ぶ者がいなかったからである。そしてやっと呼ぶことの出来る者がうまれて初めて名を呼んだ。「ヤーベ」とか「エホバ」とかは後で呼ばれた名である。最初にあった名は「アルファでありオメガであり在る者」であった。英語であればAでありZであり、日本語であれば「初めであり終わり」であり、「I am」であり、「在る者」であった。最初にはその神しか存在しなかったのである。
武内宿禰のいう正統竹内文書(帝皇日嗣)にもその宇宙の始まりが書かれているという。人がまだ存在しなかった100億年ほど前のことから書かれているという。そしてその後代々いろいろな家系で伝承されてきたその事実は、いまやっと科学によって証明され始めた。
5,000年前の口伝の継承者はいう。
5,000年前の龍座信仰は、「それまでの北極星」の移動により廃れたという。それは、スフィンクスがなぞとなったように、星座が時代によって変わっていったからであった。その公転周期は、つまり、地球が含まれる銀河における太陽系の公転周期は約56億年であった。つまり、それまでの北極星は今のこぐま座の北極星ではなかったのである。
そして、そのことを知っていたのは唯一神と契約を結んだユダヤ民族だけではなく、あの空海も知っていた。真言密教はそういうものであった。火を油断なく灯す、ゾロアスター教の流れであった。ドイツ語でいえば「ツアラツストラ」、英語では「ザーラスター」であった。
「龍座」は後に「天神アン」として復活するまで天の川に消えたと考えられ、天の川信仰にとってかわったという。さらにはその天の川にかかる白鳥座の北十字星が十字架信仰となったという。
「天神アン」は「天空に在しますわれらの父」であり、「天神安」であり、「主ロード」であり、イエスの言う「エル」であった。「エリ」とも呼ばれるこの神は、エルニーニョ(神の手)の「エル」である。
天の川は「天安河原」であり、白鳥座である十字星の十字架は「天津神」であるという。そしてその十字架信仰は「天津神信仰」であるともいう。
そしてさらにその後イエスが生まれる頃に、北極星は今の「こぐま座の北極星」へと移行したのだという。
そうして「天神アン」は復活したのであった。
復活したことにより「天神アンの年」である西暦が定められたのだという。
天神アンは米であるという。つまり、天神アンは米の文字の中心にあり八方位をあらわす。八方位とは米の文字の中心から見てである。これが「ヤーベ」であり、「ヤハウェ」でもあり、「ヤハタ」でもあるという。「ヤーハタ」である。
つまり、米は「天神アン」であり、十字は「天津神」であると。
メソポタミアでは「天神アヌ」であり、「天神アヌ」を回る集まり(天安原での会議)をアヌンナキというと。メッカを回るイスラムの巡礼も日本の盆踊りも同じ向きに回るという。
日本では「天神アン」は「アマテラス(麻氐良須)」であり、「朝倉(麻氐良須)」であった。古事記における「天照アマテラス」を回る集まりは「天安河原」であった。
メソポタミアの会議「アヌンナキ」はイラクや日本のの菊家紋となり、八方位の神(ヤハウェ)の矢立て紋が大和朝廷の紋となったともいう。それは新しい。アマテラスも菊家紋も古くはなかった。アマテラスでさえ135代目、菊家紋の前は日月紋であった。「アマテラス」と「ツクヨミ」の紋であった。「アマテラス」は「イヅモ族」であり、「ツクヨミ」は「ヤマト族」であった。そのふたつが合体した象徴が「天皇」であり、「剣」と「鏡」であった。
出雲の「アメノムラクモノツルギ」と「ヤタノカガミ」であった。
つまり、日本の国号は701年からであるが、国體としての天皇は西暦57年に、そしてそのルーツは7,000年前に遡る。日本は最も古い伝承を持つ国であり、そして今もなお天皇を中心にその口伝による伝承は受け継がれ、現代においても、人類の未来に大きな役割を果たすべき存在でもあるのであった。これからの未来も日本の果たす役割は大きい。それは政治的にではなく、人類の未来と希望のために。
つづく
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