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【日本国記】 第二章 11 秦と幡多2・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい―   土方水月 

11 秦と幡多 2   

 九州の倭から朝鮮半島の倭であった伽耶に渡り、新羅の王となったのが昔脱解であったと言われる。”昔”は日本では下関や上関の”関”である。

 当時は小国が分立し、まだ広域の国として統一されていなかった時代である。高天原から日本列島に天下った天皇家を含め、何万年も前からの数多くの”渡来”があった。その最前線は九州を含む日本海側であった。そのため倭の中心は朝鮮半島の伽耶任那を含む九州を中心とした一帯となったのは当然の結果であった。蝦夷とも呼ばれた東北や北海道は倭ではなかった。

 しかし、何万年も前から人は日本列島にやってきていた。北からも南からもやってきていた。地質時代の完新世が始まる前の氷期には海面は今よりかなり低く、北からは容易に来ることができた。今群馬県の岩宿にある関東ローム層の中で発見された黒曜石は三万年前の打製石器であった。その後のB.C.5世紀には北方アジア人が”渡来”したといわれる。カスピ海沿岸からやってきたという。

 そしてB.C.3世紀には最初の”秦”がやってきたといわれる。しかし実際にはもっと以前から“秦”はやって来ていた。イエスの時代よりはるか前から散り散りになったイスラエルの民は東へ東へと逃れ、エブス人として日本列島に”渡来”していたという。その後に”渡来”した者たちから追われ、彼らは今の東北に移り住んだ。その後に”渡来”した者たちとはインドのクナト族(出雲族)であったといわれる。そしてB.C.3世紀になってやっと一般にいう秦氏がやってきた。彼らは徐福一派であったともいわれる。

 多婆名の三韓(弁韓馬韓辰韓)のうちの辰韓(秦韓)にいた人たちにはイエスの子孫がいたという。辰韓は後に新羅となる秦韓でもあった。その後彼らは日本列島にも“渡来”したといわれる。九州に渡り、諫早(イザヤ)に移り住んだ。

 紀元後3世紀には勾呉が有明海にやってきた。姫氏である。日本では”紀”と書かれた。

 つづく

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