#35 地方都市の新たな魅力に出会う ブロンプトンとローカル線の旅/中国山地の美都と灼熱の砂丘へ④
2024年9月中旬、ブロンプトンを連れて、岡山から鳥取にかけて旅行した記録です。初日は津山線沿線の旅とワイヤー錠が壊れるアクシデント。2日目は、津山の町をポタリングした後、因美線に乗って鳥取へ。猛暑の砂丘を歩いて、鳥取市内へ戻ってきました。これから鳥取の酒場放浪記ですが、学生時代のバイト仲間の面影が、ここでも脳裏についてまわります。(旅行日:2024年9月11〜13日)
▼ここまでの記録はこちらです。いずれの記事も、note公式マガジン「#旅のフォトアルバム 記事まとめ」にピックアップして頂きました。ありがとうございます。
◆ 酒場放浪記@鳥取
7月の終わりのある夜、学生時代のバイト仲間の女性が夢に現れました。以来、何かにつけて彼女がそばにいるような妄想に囚われています。今回の旅も、山中の激坂で共に息を切らしてペダルを踏んでいたり、津山の城址を肩を並べて歩いていたり。鳥取砂丘でも「これはもう、ほとんど、蟻地獄の気分」などとこぼし合いながら、馬の背への斜面を登っている様を思い浮かべていました。
有休消化中のお気楽な身分で、不満もストレスもない今だからこそ、こんなファンタジーの世界に遊んでいる余裕もあるのでしょうが。
さて、かつて何度も読み返したクライブ・カッスラー「死のサハラを脱出せよ」を思わせる酷暑の鳥取砂丘から、鳥取市内へ戻りました。鳥取市は人口18万人、国内で最も人口が少ない県庁所在地。とは言ってもかつては池田氏32万石の城下町、現在も松江・米子と並ぶ山陰の拠点都市。駅前からは立派なアーケードが延び、見慣れたホテルチェーンの看板が幾つも並んでいます。今宵の宿は、そのうちの一つ。
シャワーを浴び、洗濯の合間に軽く昼寝して体調を整え、こざっぱりした格好に着替えて1階へ降りてゆき、壮年のフロントマンにお勧めの店を尋ねました。
彼から返ってきた三軒の答えのうち二軒はチェーン店、というあたりで、この人は転勤してきて間もないのか、或いは酒を呑まない人だと気づくべきでした。
教えてもらった中で、唯一、チェーン店ではない初めて名前を聞く店へ。店前に立つと、わたしのような一人旅のおっさんや出張族が飲みに来る雰囲気ではない。ここかあ?と思いながら、それでも彼のお勧めなのだからと、義理堅く暖簾をくぐりました。
大失敗。大学生がコンパで来るような店でした。今なお感染症対策のパーテーションが設置されたカウンターで、同じく店の選択を誤ったと思しき中国女性ひとり旅の隣に腰掛け、ビール飲みながら焼き魚をつついて、1時間ほどで退出。
居心地のいい店を探して飲み直そう、とアーケード街を歩き始めると「一杯飲んできませんか!」と元気な声に呼び止められました。
30〜40代と思われる女性がひとりで経営している、路面に面したカウンターだけの店、といいますか、席は歩道に置かれた幾つかのスツールのみ。若いカップルが気持ちよさそうに呑んでいます。
店の奥には、青森県の地酒が並んでいました。15年ほども前、仕事で毎週のように青森県各地へ通っていた時期があります。豊盃や陸奥八仙など馴染みの銘柄も、初めて見るラベルも並んでいます。
まずは豊盃を注文。聞けば、店主は青森で大学事務をやっていたそうで、わたしと同業。にわかに親近感を覚え、話が弾みました。
同席の若いカップル、話してみると二人ともとても人当たりがよく、礼儀正しいいい子でした。出身は倉吉とのこと。鳥取県人は気のいい人ばかりだけど、鳥取市だけは気位が高いと言われるんですよ、城下町なので…と、ほろ酔い気分で話してくれます。
今日はどこへ行ってきたんですか、と訊かれ、鳥取砂丘と応えると、地元の人はあまり行きませんねえ、と店主と顔を見合わせて笑いました。一度行けば、まあ十分ですから、とのこと。わたしの周囲にいる京都出身者の中に、桂離宮へ行ったことがある人がいないのと同じですね。
そのうち店主が「この間、モルックを買ったんだけど、やります?」と、人通りの少ないアーケード街でモルック大会が始まりました。通りかかったほろ酔い気分のグループも仲間に加わり、熱き戦い、と言いたいところですが、参加者全員かなり酔いが回って手元が不確かな状態で夜更けのひと時を楽しんだことでした。
思いがけぬ楽しい時間を過ごし、ホテルへ戻る前に酔いを覚まそうと、静かな街をぶらぶら散歩しました。
なんだか、とても暖かな気分でした。
通りのオブジェを見て、ああ、そういえば鳥取といえば因幡の白兎だよなあ、などと思い出し、この旅の少し前から脳裏を離れない、学生時代のバイト仲間の女性がまた隣にいるような気分になって、ああ、白うさぎだね、おいしそう、などと不穏なことをぶつぶつと話しかけながら…通りすがりの人が見たら酩酊した不審者以外の何者でもないでしょう。
もはや見かけることも少なくなった、中心市街地の映画館。
綾瀬はるか主演のロードムービー「ルート29」のバナーが掲げられていました。11月に公開とのこと。調べてみると、国道29号線は姫路と鳥取を結んでおり、明日予定しているルートでもここを走ることになりそうです。
こういうロードムービーは、古くは「幸福の黄色いハンカチ」や「愛情物語(⇦ロードムービーなの?という議論はあるでしょうが)」の時代から好きなので、ぜひ観たいところ。
煌々とあかりが灯る人影少ない商店街を、想像の中の彼女と肩を並べ歩くうち、さすがに疲れてきたので、一休みしようか、などと話しかけ、ラーメン屋へ。なかなか美味しゅうございました。
◆ 不動院岩屋堂へのライドと若桜鉄道
最終日。今日の午前中は、若桜鉄道の沿線を走り、不動院岩屋堂を目指します。
若桜鉄道の起点である郡家まではJR因美線で輪行。ちょうど通学時刻とあって、高校生たちで賑やかでした。
往路は郡家から不動院岩屋堂まで自走する計画です。
静かな駅前通りを走り、左折すると国道29号線です。起伏を一つ越えて、八東川の流域に出ました。が、この道は通行量もそれなりにあり、どうも面白味にかけます。そこで、旧道や農道を適度に拾い、寄り道しながら走ることにしました。
旧道に入り込むと、路傍に道祖神。梨畑も広がりました。目に留まった風景をカメラに収めながら、のんびりと踏んでいきます。
稲穂が既に黄金色に実り、降り注ぐ陽射しの下で輝いていました。通りかかると、スズメの大群が一斉に飛び立ちます。
若桜鉄道は、八東川の対岸を走っています。この先は集落も対岸に多いので、八東橋で川を渡り、農道をつないでいきます。踏切の脇に、鎮守の杜。
再び北岸へ戻り、国道を走りました。地図を見ると、近くに丹比という若桜鉄道の駅があります。立ち寄ってみることにしました。
なんの予備知識もないままに立ち寄った丹比駅は、昔懐かしい木造駅舎。国指定重要文化財に指定されているそう。ホームに残された木のベンチに身を沈めると、まるで森の中にいるように安らぎます。その傍には、「開かずの金庫」なるものがそっと佇んでいました。
国道に戻って、八東川を渡ると、対岸に豪快な断崖が姿を現しました。標高差はどれくらいでしょうか、ほぼ垂直に切れ落ちています。
その先は人家の少ない川沿いの道が続き、やがて前方の山懐に製材所からの煙が見えてきました。程なく、道は若桜町内に入りました。
若桜は、かつては若桜鬼ヶ城の城下町であり、1612年に一国一城令によって廃城となった後は宿場町として、また林業の盛んな町として発展したそう。しかし林業が斜陽になるにつれ、1960年代には一万人を超えていた人口が急減し、今では2800
人ほどの小さな町。
以前見たテレビ番組で、古い街並みが保存されているという予備知識はありました。まずは、焼杉と白壁に挟まれた路地のような通りへ入り込みます。
両側の細い水路を、賑やかな流れが駆け下っていきます。
町の見学は帰路ということにして、先を急ぎます。
その先、交通量はめっきり少なくなり、山峡の趣が濃くなってきました。道は緩やかな登り勾配。
景色の変化も少なく、少し嫌になってきましたが、若桜の市街地から6キロ少々で、不動院岩屋堂の標識が現れました。
さて、察しの良い方は既にお気づきかもしれません。
わたくし、盛大な勘違いをしたまま、ここまで走ってきております。
岩壁に建てられた、このような「投入堂」と呼ばれる仏教建築は鳥取県に2つありまして、一つはこの不動院岩屋堂。しかし有名なのはもう一つの方で、国宝に指定されている「三佛寺投入堂」です。その程度の下調べすら面倒臭がっていたわたしは、その二つを完全に混同しており、要するに、若桜に行けば「三佛寺投入堂」が見られると思い込んでいたのです。
え、これ?写真と違ってスケールが小さいなあ。
観光客も全然おらんし。
重要文化財?国宝ではなかったんか。
もちろん、これはこれで見応えがあるのですが、想像とのギャップに戸惑っております。
後になって調べてみれば、三佛寺投入堂は倉吉の奥にある三朝温泉から、さらに山へ分け入ったところ。標高も900メートルとのことで、鳥取市から小径車で走ってから、その日のうちに京都まで戻れるような場所じゃありませんでした。しかしながら、これはこれでぜひ行ってみたい場所。鳥取を再訪する楽しみができたと、前向きに捉えておきます。
帰路は下り基調の道を飛ばし、再び若桜町内へ。山から雲が湧いてきました。今日も、午後は雷雨になるのでしょうか。
鳥取行きの発車までの僅かな時間、わたしは街並み保存地区を行ったり来たりして過ごしました。平日の午前、通りは静か。街全体が緩やかに傾斜しており、側溝を流れる水音が涼やか。
若桜駅は、C12をはじめとするレトロな車両や、転車台、給水塔などが構内に保存されていることで知られています。残念ながらゆっくり見る時間がなく、外れの方から構内を一望したのみ。懐かしい12系客車列車が停まっていました。
木造の駅舎の中にはコーヒースタンドがありました。テイクアウトのアイスコーヒーを買い、鳥取行きに乗り込みます。
水戸岡鋭治氏にデザインによる車両は、木目を活かした温もりのあるインテリアでした。
若桜鉄道は、重要文化財に指定されている設備群を活かして鉄道ファンを呼び込む一方、第3セクターとは思えぬほど運賃を低額に抑えています。例えば車内にトイレやゴミ箱を設置しないことで経費節減を図るなど、並々ならぬ経営努力を重ねているようです。
このような、小さな鉄道会社の努力を目の当たりにすると、JRの不採算路線も今一歩の取り組みが必要ではないかと、物申したくなってきますね。
鳥取の山中に息づく、小さな町と小さな鉄道の姿に、胸が熱くなる思いでした。
◆ 偉大なるローカル線の旅
鳥取へ戻り、そのまま山陰本線の普通列車へ乗り換えました。ここから関西へ鉄道で戻るなら、智頭急行線経由の特急が最も早く着きます。しかし時間だけはたっぷりある有休消化中の身、今日は山陰本線を忠実に辿って京都へ戻ることにしました。途中、浜坂と城崎温泉で乗り換えがあるので、軽いポタリングを挟みながらのんびりと行く予定です。
冷房の効いた車内で揺れに身を任せ、窓枠に肘をついて居眠り。
向かいの席に、面影の彼女が腰を下ろし、頬杖をついて夏の終わりの海を眺めているような幻想に、また囚われていました。旅も3日目の午後、連日の炎天下のライドで、さすがに彼女も言葉少なになり、ただ2人で緩やかに流れる時間を共有している様を。彼女の白い横顔とくっきりした顎の線に、わたしは見惚れているのでした。
当時、わたし達が顔を合わせるのは、バイト先の新聞社か、有権者名簿からのランダムサンプリングに行く区役所か、時々デスクが連れて行ってくれたお好み焼き屋くらい。このような風景を共にしたことはありませんでした。故に、彼女がこのような旅や屋外での活動を好む人かどうかも、実は全く知らぬまま、ただ勝手に想像をたくましくしております。実に困ったおっさんだと思います。
山中を走った列車は、岩見を過ぎてようやく海岸線へ出ました。地図を見ると、この区間で山陰本線が海岸を走る所は意外と少なく、この東浜あたりと、この列車の終着である浜坂の手前の諸寄周辺のみのようです。
面影の彼女と共に、午後の日差しの中うとうとしているうちに、1時間少々で浜坂に到着。
高校生の頃の山陰旅行で、ここのユースホステルに泊まったことがあります。夏休み中のことで、関西からの海水浴客で賑わっていた記憶があります。今日は9月の平日、小さな町は静寂の中にありました。
ここから余部橋梁まで、もう一走りしようかという考えもありましたが、地図を見るとひたすら山中を走るルートで、山越えもある模様。あまり時間もないので自重し、浜坂の町内をポタリングするだけにしました。
浜坂は、孤高の人・加藤文太郎の出身地。以前、新田次郎の小説を何度も読み返したものです。当時、彼は神戸からここまで徒歩で帰省していたというのだから、その逞しさには感嘆するしかありません。
町中の墓地に彼の墓があるとのことで、探してみましたが見つからぬまま、城崎温泉へ向かう列車の出発時刻が迫ってきました。
浜坂駅から各駅停車の旅を再開しました。ここから二駅で、鉄橋で有名な餘部です。1912年に竣工した初代のトレッスル橋は2010年に役目を終え、今は2代目のコンクリート橋が漁村と日本海を見下ろしています。
驚きました。餘部駅のホームには多くの人々がいて、カメラやスマホを構えています。
こんにちの餘部駅は「空の駅」として人気を博しているそう。かつては高低差42mに及ぶ長い階段を登ってくるしかなかったのですが、平成29年に「餘部クリスタルタワー」の愛称を持つエレベータが設置され、絶景を求めて多くの人がこの駅のホームに立つようになったそう。
添乗員に率いられた多くのシニアが乗り込んできて、先ほどまで閑古鳥が鳴いていた車内は、通路まで一杯になりました。
やれやれ…と、向かいの席に座っているつもりの面影の彼女と顔を見合わせます。
そこへスマホが鳴り、立て続けにLINEメッセージが着信。再就職先からです。
10月からの業務準備のため、オンラインミーティングを設定したい、また、正式着任前に数日でも来ることはできないか、というもの。
突然、現実世界へ引き戻されました。
再就職先は、ただでさえ人手不足の中、大変な繁忙期を迎えていることは承知していました。わたしが長い夏休みを堪能している間にも、世の中は刻々と動き、多くの人が額に汗して働いているのです。
そろそろ、青臭い妄想の世界から、抜け出さねばならぬ時が来たようでした。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。
津山•鳥取の旅はここまで。続いて、京都からの再移住と転職の顛末を綴っていきたく思っています。よろしければ続きもお読み頂ければ幸いです。
▼これまでのローカル線とブロンプトンの旅は、こちらのマガジンにまとめております。
わたしは、2020年に32年勤めた会社を早期退職した後、関東から京都へ地方移住(?)しました。そしてこのたび京都から、今度は本物の(?)地方移住をいたしました。
noteでは主に旅の記録を綴っており、ロードバイクで北海道一周した記録や、もう一つの趣味であるスキューバダイビング旅行の記録、また海外旅行のことなども書いていきます。宜しければ↓こちらもご笑覧下さい。