【最終章】北国の空の下 ー 週末利用、自転車で北海道一周 : 再び、北国の空の下(前編)
週末や有給を利用して関東から足を運び、ロードバイクでつぎはぎの北海道一周。当時の勤務先を早期退職した2020年の8月、足掛け5年・実走29日で轍はつながり、程なくわたしは新たな任地である京都へ向かいました。
それから4年の歳月が流れました。
▼ 北海道一周の記録は、こちらのマガジンにまとめています。
2024年10月中旬、よく晴れた週末。
今日こそ荷物をあらかた解いて部屋を片付けようという決意は、透明な大気と降り注ぐ陽光のもとで、脆くも崩れ去りました。堆く積まれた段ボールをかき分けて、膝下までのビブショーツと長袖ジャージを引っ張り出し、スペシャライズド・ルーべと共に、屋外へ。
東の空に大雪山。その南にはトムラウシ、さらに噴煙を上げる十勝岳。
まもなく山々は雪をいただき、紅葉と新雪のグラデーションという北海道ならではの風景が見られることでしょう。
朝からケーブルテレビの設置工事があり、その後、格安スマホへの切り替えについてケーブルテレビの担当者から色々話を聞いていたため、時刻は間もなく正午。
秋の北国の空から降り注ぐ柔らかな陽射しと、涼やかな微風を全身に浴びて、ペダルを踏みだしました。
◆ 京都での4年間
その2週間ほど前、わたしは4年間暮らした京都から、旭川にほど近い東川町へ越してきたばかりでした。2020年8月に「週末北海道一周」の掉尾を飾る素晴らしい夏旅を終えた翌週、54歳にして初めての関西暮らしを始め、大学という未経験の業界で働き始めました。幸運なことに何の取り柄もないおっさんには過分なほどのポジションと給与を得、しかも前職の割増退職金のおかげで住宅ローンを完済できたばかりでなく、転居にあたり賃貸したマンションが若干の副収入も産んでくれるようになり、経済的にはかなりの余裕がある生活を送りました。
ただ京都の気候には参りました。引っ越した最初の晩は、まだエアコンが設置されていない部屋で汗みどろになり、肺が蒸し焼きにされそうな熱気に輾転として寝付けなかったものです。かつて熱帯でも暮らしていたので暑さに耐性はあるつもりでしたが、京都のそれはタチが悪い。湿度が半端ではないのであります。後になって、京都盆地の地下にある、琵琶湖の貯水量にも匹敵する豊富な水脈故であると聞かされました。なんとなれば、巨大な沼沢地の上で蒸されているようなもの。
信州で生まれ育ち、北海道や東北で長年暮らして来たものだから、噂に聞く京都の底冷えなんてえのも大したことはなかろうと、これもたかを括っていました。ところがこれがまた、じめじめと湿っぽく神経を蝕まれるような寒さ。ハンマーで叩いたら割れそうな硬質の北海道の寒気を懐かしく思い出しながら、年末には冬休み前から有休を取得して石垣島へ逃避し、晦日に戻ったらその足で信州へ帰省するのが毎年の慣例になりました。
こんな気候は心底嫌だったものの、京都人は巷間誇張して取り上げられるような嫌味な人たちではありませんでした。一般におっとりとして穏やか。京都で生まれ育ちそのまま京都で就職する人も多く、その中には確かに、視野の狭さを感じる人もいました。でもそれは京都人だから取り立てて騒がれてしまうだけでしょう。例えば道産子が皆おおらかな気質のわけでもなく、また東北なら皆人情味溢れる親切な人ばかりというわけでもない。強いていうならば、紹介文化であるが故に、新参者には「一見さんお断り」の入り込みにくさは確かにありました。しかし、自治体や産業団体の人たちと付き合いを重ねていくと、皆、世話好きのいい人達でした。
多くの人は、生まれ育った土地への郷土愛を抱いています。京都の場合、それに千年の都のプライドというスパイスがトッピングされます。これが時に誤解を招く要因でしょう。仕事で色々な人と会っていると、しばしば「京」というブランドへの盲目的な信仰ともいえる拘りに出会いました。京の酒、京の米、京の野菜…「京」がつくだけで付加価値がつくと思っちゃあいませんか。性格の悪いわたくしは、こんなふうに思ってしまうこともありました。
いろいろ差し障りがあるので詳しくは書けませんが、西日本のとある農産物で有名なエリア出身で、今は京都の公的な団体で農業関係の仕事をしている方と話したことがあります。彼曰く、安くて高品質の野菜を食べて育った自分には、京野菜の価値がわからん。まあ、まずいとは言わんが、なにせ高い。毎日食べるものにあんな値をつけるのは如何なものか。ブランド化もいいけれど、消費者には迷惑な話だ… あんたの立場でそれ言っちゃマズイでしょ、と笑いながら、信州生まれの北海道育ちを自称するわたしは強く同調し、仕事そっちのけで語り合ってしまったことでした。まあこれは、圧倒的な歴史文化を誇る千年の都に対する、地方出身者の僻みなのかもしれません。
京都へ移り住んだ当時は、新型コロナによる行動制限下。観光公害など彼岸のことと思われるほど京都は静かでした。嵯峨野に定めた寓居から、嵐山へは歩いて10分足らず。渡月橋はもちろん竹林の中の小路も、何の遠慮もなく自転車で走れました。通勤経路には広隆寺があります。国宝第一号の弥勒菩薩半跏思惟像を拝観に来る人は週末でもまばらで、好きなだけ向き合っていることができました。さらにはいつだったか、京都国立美術館で唐招提寺の鑑真和上像が公開された時のこと。会場はガラガラで、30分ほどもガラスケースにかぶりつきで拝観できました。またあるお寺では、あまりに拝観者が少ないからか、ちょうど秘仏の煤払いの最中で、オプション料金なしでじっくり拝ませて頂いたものです。
退屈な休日の午後には、龍安寺の石庭へよく足を運びました。濡れ縁に腰を下ろしているのは、多くても4〜5人。近所の古民家カフェ感覚といっては世界遺産に対してあまりに不遜ながら、そんな気軽さで文庫本を一冊持参し、木々を揺らす風の音に耳を傾けて日向ぼっこしながら、読書に耽ったりしたものです。
「天国だね。コロナが終わったら二度とできない…」
ある初夏の午後、隣に座っていた大学生風カップルがそう語らっていました。
全ての負の感情が霧散して、今自分がここにあることだけを感じるひと時がそこにあったものです。
自転車ライフについていえば、京都は三方を山に囲まれており、ロングライドを企てたら必ず山を越えねばなりません。特に嵯峨野の西方には嵐山や小倉山が聳え、亀岡方面へ抜けようとするならば、物流車や営業車が数珠繋ぎの国道で老ノ坂峠を越えるか、或いは激坂の六丁峠を越えて保津峡へ、さらにゆずで有名な水尾を経て神明峠を越え、日吉を目指すしかない。唯一、山がないのは南方で、桂川に沿ってサイクリングロードが伸びています。八幡の背割桜から先は木津川に沿って、ど平坦の道を奈良・斑鳩・飛鳥へ、何度も走ったものでした。
ビワイチも好きなルートです。京都市内を横断してから逢坂の関を越えて大津までのアプローチは面倒でしたが、年2回は走っていました。1日で走り切るは勿体なく、いつも長浜で一泊し、行きつけになった料理屋で一献を楽しんだものでした。
ただ、一部の幹線道路を除けば京都の道は幅員が狭く、路側帯はなきに等しい。電柱も少なくない。表通りはバスがしきりに行き交い、脇道には車幅の広い輸入車が身を捩じ込むように入り込んできます。
なぜか京都人は輸入車を好む傾向が強い模様。
コロナの拡大期には、わたしの勤務先も自動車通勤が認められました。その初日、ずらりと並んだBMW、アウディ、ボルボ、フォルクスワーゲンなどに目を見張ったものです。これはわたしの勤務先における特異現象ではなく、市内のどこへ行っても輸入車が目立ったものです。
この道路状況は、どう見ても自転車フレンドリーとは言い難いのでした。
新型コロナが第五類へ移行した頃から、そんな京都暮らしに息苦しさを感じるようになってきました。
朝7時半に家を出て、細い道を行き交う車に肩をすくめるようにして駅へ。10分強列車に揺られ、勤務先までは最寄駅から徒歩3分ほど。東京に勤めていた頃に比べれば通勤のストレスはなきに等しい。しかし、その経路で目に入るものは、全てが人工物。路傍の川はコンクリートで固められ、猫の額のような敷地に間口の狭い3階建ての家が密集し、その玄関先のわずかなスペースに、神業のように止められたクルマ。
観光客の戻りに伴って、嵐電も、地域ブランディングのためか「嵯峨野線」の異名を取るJR山陰本線も、日中は常に満員。渡月橋あたりの混雑は原宿の竹下通り並み。非常事態宣言の最中はジョギングコースにしていた竹林など、もはや近寄りたくもないほど。
奥嵯峨の化野念仏寺や愛宕念仏寺、洛北の正伝寺、また西山の古刹群など、静かな時間を楽しめる場所も、もちろん少なくはありません。しかし生活者としては、河原町や京都駅周辺へ行くたびに人混みに嫌気がさし、スマホで動画を見ながら歩いている輩やら歩道を占拠しておしゃべりしながら歩くオバンやらに殺意を抱き、一休みしてnoteの記事を書こうにもカフェはどこも満席…そんな環境に疲れを感じ始めていました。
◆ イニスフリーを探して
そればかりが原因でもないのですが、23年の後半あたりから血圧が上がり、これは環境を変えないとまずいかも、と思い始めました。しかしながら一方では仕事を通じた人脈も多少は増えて面白味も出てきた頃でもあり、迷い多き日々を送っていました。
2年後には定年を控える身でもありました。再雇用を選択するつもりは元々なし。セカンドキャリア、というか一度転職しているのでサードキャリアになりますが、そこでは日本語教師の道へ進みたいと、かねてから考えていたためです。
産業の担い手として、また地域社会の担い手として、これからの日本は外国人に対してもっと門戸を広げなければならない。おそらくは多くの人が感じていることでしょう。しかし、生活者としての外国人を受け入れる体制、とりわけ、生活において不可欠な日本語教育を行う人材が、地方へ行けば行くほど不足している現状があります。地方出身者としては、この課題に対しささやかでも何らかの貢献をしながら次の人生を送りたいと思い、養成講座も修了していました。
ただ、日本語教師は、宿命的に収入には恵まれない仕事です。そのことも、一歩踏み出すのを逡巡していた理由でした。
そんな迷いを引きずりながら、時には輪行バッグを担いで、時にはブロンプトンを連れて、またある時はダイビング器材を詰めたキャリーケースを引いて、各地を旅しました。経済的に余裕があったので、まあ、自分でも呆れるほどに旅して歩いていたものです。
瀬戸内の温暖で穏やかな風土。素朴で温かい四国の人たち。水辺の風景が美しい松江。関東に暮らしている頃にはやや縁遠い存在だった中国・四国地方へ、幾度も足を運びました。石垣島へはコロナで海外渡航ができなかった影響もあり、毎年2〜3回もダイビングに出かけていました。奄美大島や隠岐の西ノ島なども、大好きな土地になりました。
時には東へ向かいました。50年ぶりに生まれ故郷の町を訪問した旅や、かつて7年ばかり暮らした東北を再訪した旅では、自分を育んでくれた土地への想いで胸がいっぱいになったものでした。
自分は、イニスフリーを探しているんだろうか…
かつてジョン・フォード監督が「静かなる男」の中で描いたアイルランドの美しい村を、わたしは時々思い浮かべていました。メインストリートが1本だけの小さな村。しかしそこには海を見下ろす古城や、鱒が泳ぐ渓流や、石垣で区切られた牧草地、それにバラが咲き乱れる庭がある。皆、少し変わったところがある住民たちは愛すべき人物ばかり、悪人は一人も登場しない。その村を少年時代に離れ、アメリカへ移民したジョン・ウェイン演じる主人公が帰郷し、幼い頃に母に聞かされた故郷の風景の中で暮らしていきます。
風来坊が最後に腰を落ち着けるべきそんな理想郷を、わたしは無意識のうちに探していたような気がします。
まもなく還暦を迎え、収入もほぼ確実に大幅減となります。正確に言えば、老後の蓄えがある程度確保できた今、収入やポジションにこだわらない働き方を選ぼうとしているから大幅減になるのですが、とはいえ病気など不測の事態も考慮するなら決して余裕があるわけでもありません。これからは倹約を心がけ、家計をきちっとコントロールしていかねばならないでしょう。
その観点から言うならば、これまで各地で暮らしてきた経験から、南国暮らしの方がはるかに楽なことは実感していました。年をとれば寒さも堪え、血圧にもよろしくない。南国なら灯油代も洋服代も大してかからないし、冬底の靴など無用の長物。一年中自転車に乗れるし、海にも行ける。
そう理解しつつも、わたしの脳裏には常に、宇宙にまで届きそうな北海道の蒼空が広がっていました。
かつて学生時代を過ごし、その後も第二の故郷のような土地であり続け、短期間ながら札幌へ赴任していたこともありました。東京の本社へ帰任の辞令が出たときは、北海道を去るのが嫌で嫌で、本気で転職を検討したものです。札幌赴任中に始めたオードバイクでの北海道一周は東京帰任後も続け、結局足掛け5年、実走29日で走り切りました。その途上で走った数々の素晴らしい道や風景との出会い、一夜を過ごした町で味わった北国の幸、そこに暮らす人たちとの交流は、いつまでも忘れえぬ思い出です。
2020年に前の勤務先を早期退職した際には、北海道のとある名門企業から内定を頂きながら、悩みに悩んだ末、もう一度くらいは未知の土地で未知の業界へチャレンジしたいとの気持ちが上回り、京都へ行く道を選んだものでした。しかしその後も、いつかは大好きな北海道へ帰りたいという想いが色褪せることはありませんでした。
以前から気になっていた、北海道のとある日本語学校の求人を見つけたのは、そんな時期のことでした。
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思いもかけぬ長文になってしまったので、続きは後編で。ここまでお読み頂いて、ありがとうございました。
わたしは、2020年に32年勤めた会社を早期退職した後、関東から京都へ地方移住(?)しました。そしてこのたび京都から北海道東川町へ、本物の(?)地方移住をいたしました。
noteでは主に旅の記録を綴っており、ロードバイクで北海道一周した記録のほか、ブロンプトンを連れてのローカル線の旅や、もう一つの趣味であるスキューバダイビング旅行の記録、また海外旅行のことなども書いていきます。宜しければ↓こちらもご笑覧下さい。