【読書】『昨日までの世界』[下]⑥【建設的なパラノイア(被害妄想)】
事故は、いずれ起こる
ジャレド・ダイヤモンドさんがニューギニアの密林でフィールドワークをしていた時の話だ。
ニューギニア人たちは、枯れた巨木の下で寝て、一晩過ごすことを極度に怖れていた。
巨木が倒れてきて自分たちが下敷きになるかもしれない、と。
はじめのうちは、彼らの怖がりようは大げさで、ほとんど被害妄想だと思っていたそうだ。
しかし、その後、数カ月つづいたニューギニアの森での観察活動のあいだ、木が倒れる音を耳にしない日は、一日としてなかったそうである。
ジャレド・ダイヤモンドさんの計算はこうだ。
ニューギニア人たちは、1年のあいだに100日は野営している。そうすると、40年の人生のあいだに、4000日は野営することになる。
たとえば、1000回に1回しか死なないようなことでも、年平均100回それを行うような生活をしていれば、10年以内に死んでしまう確率が高いのである。
計算上、ニューギニアの平均寿命40年をまっとうできないということになる。
いくら低確率のリスクでも、繰り返すことが多ければ多いほど、いつかどこかで事故は発生する。
この種の被害妄想をジャレド・ダイヤモンドさんは「建設的なパラノイア(被害妄想)」と名付けた。
ニューギニア人から学んだもののうち、建設的なパラノイアほど心に残ったものはないそうだ。また、建設的なパラノイアはニューギニア人のあいだでは一般的であるが、世界各地の伝統的社会においても、多くの観察例が報告されている。
現代の西洋社会における危険と、伝統的社会における危険は同じではない。
まず、種類が違う。
もっと重要な違いは、危険の度合いである。危険の度合いは、現代社会で暮らすわれわれよりも、伝統的社会で暮らす彼らのほうがはるかに高い。
もう一つ重要な違いは、事故に遭って怪我をしたとしても、たいてい治療できる。伝統的社会では、一生残る障害になったり、命を落としたりすることもある。
私がここ最近よく見かけて気になっているのは、自転車の取り締まりである。
夜間の無灯火、雨の日に傘をさして走る、などなど。
自動車に比べたら危険度は低いかもしれない。よけられるかもしれないし、事故を起こしても軽傷で済むかもしれない。
毎晩、走るわけでもない。毎日、雨が降るわけではない。
しかし、10年、20年生活していたら、いつかどこかで、誰かにぶつかるかもしれない。
もし、相手が重傷を負ってしまったら?
世の中は心身ともに頑健な人ばかりではない。病気や怪我で動きが鈍くなっていたり、怪我しやすくなっていたりする人もいる。
発生するリスクは低いかもしれない。大した事故にならないかもしれない。
しかし、人生で1000回ぐらいは自転車に乗るだろう。その1000回に1回に起きた事故が、誰かに大怪我を負わせる事故になってしまったら?
高頻度で繰り返すものであるのなら、警戒するに越したことはない。
それに、ニューギニア人ほど重大かつ重要なものではないのだから、防ごうと思ったら防げるし、やめようと思えばやめられる。彼らに比べたら大したことではない。
打たないシュートは入らない
注意深いニューギニア人は、メリットとリスクを秤にかけ、判断してから行動できる人間なのである。
しかも、彼らは、リスクが高いことを行うのをいとわない人々であり、適切な注意を十分に払ったうえで、それを繰り返し行う人々なのである。
彼らは、リスクを冒さなければ水や食料が手に入らないのである。
ホッケー選手ウェイン・グレツキーの語った言葉がある。ネットを外すかもしれない難しいシュートに挑戦するのは、なぜですか?
ジャレド・ダイヤモンドさんは、伝統的生活で起こりうる状況に二つの脚注をつける。
シュートを外したら罰せられることがわかっていたとしても、シュートを打つだろう。
ただし、用心深く、的を外さないように注意して。絶好のチャンスが来るまで待ち続ける。
伝統的社会にもタイムリミットはある。リスクを冒して水を探しに行かなければ、水は得られない。
われわれも、チャレンジしなければ素敵な恋人とは出会えない。しかし、ウッカリしていると妙な詐欺に引っかかる。
チャレンジしなければ売れる商品やサービスを売ることはできない。しかし、取引相手を間違えると妙なバーターをつかまされる。
ジャンプして高いところに手を伸ばすのも重要だが、着陸地点を確認しておかないと、惨劇にしかならない。
リスクとおしゃべり
ニューギニア人は話好きであり、ニューギニア人が誰かとおしゃべりして過ごす時間は、アメリカ人やヨーロッパ人のそれよりもはるかに長い。
まず、ニューギニア人にとって、情報は人から人へと口づてで聞いたことが全てである。メディアから情報を得ることはできない。
伝統的社会の人々は、常に仲間との会話を絶やさず、口づてにできるだけ多くの情報を手に入れ、自分の取り巻く世界の状況を理解し、人生の危険に対応すべく備えるのである。
伝統的社会と比べ現代社会は直面する危険がはるかに低い。そして、情報源がはるかに多い。
現代社会に暮らすわれわれにとっても、会話は役に立つ。情報を手に入れることもできるし、そういう見方があったのかという新たな視点も手に入れることができる。
全く役に立たない話で笑い転げてしまったら、ストレスが吹っ飛んだという経験は誰にでもあるだろう。
しかし、「おしゃべり」に関してもウッカリしていると落とし穴がある。「言語的隠蔽」が起きるからだ。
とはいっても、これも「打たないシュートは入らない」
「言語的隠蔽」を怖れておしゃべりをやめてしまうわけにはいかない。
これにも、二つの脚注が必要だろう。
まず、正確な情報かどうかを判断すること。
そして、相手が正確な情報を教えてくれる人なのかどうか、相談相手として助言者として頼りになるか―――――要するに、信用できる人なのかどうか、を判断しなければならない。
伝統的社会に住むニューギニア人よりも現代社会に住むわれわれのほうが、リスクも低ければ、情報を得るのも容易である。
やろうと思えば、いくらでも注意深くなれるし、いくらでも慎重になれる。
リスクはとてつもなく低いかもしれない。失敗しても発達した医療技術のおかげで一命をとりとめ、一生引きずる怪我にもならないかもしれない。
数多くの情報に触れる機会があるため、正確な情報なのかどうかを判断する材料がある。
有益な情報なのか、正確な情報かも判断することもできる。
頼りにできる相談相手も助言者も探すことができる。
一生のうち1000回以上行う行動は、いくつもあるはずだ。
「建設的なパラノイア」を働かせることができれば、リスクを回避できる。