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【読書】『人口減少社会の未来学』その2【キャリング・キャパシティ(環境収容力)から考える】

 20年以上前のことだが、渋谷駅の朝の通勤ラッシュを見て
「スーツを着た軍隊なのではないか?」
と、人の群れに恐れをなした。
 次に思ったのは、
「あんなの、毎日耐えられるのか?」
 これは、何年前だか忘れてしまったが、肩がぶつかったとか、足を踏まれたかとか、そんな些細なことでケンカになって、電車が止まったという事件があった。
 やはり、ストレスを感じている。電車が止まる方がストレス高いだろう、という冷静な判断ができないほどに。
 首都圏の満員電車を見ていると、
「人口減少したほうがいいんじゃないか?」
と思ってしまう。
 これは新型コロナの「効用」だが、テレワーク・リモートワークが普及してしまえば、満員電車に乗って通勤ラッシュに耐えなくてもよくなる。ストレスも減る。
 そもそも、地方に移住すればいいんだけど。
 という議論は別項で進めるとして、今回は「キャリング・キャパシティ(環境収容力)」から人口減少の社会学を考える。

キャリング・キャパシティ

 動物の個体群動態(人類の場合は人口動態)にはキャリング・キャパシティ(環境収容力)というものがある。ある地域である種が維持可能な個体数のことだ。
 昆虫や魚のように、世代の短い動物は、人間の時間で見ると、爆発的に増える。
 これは、キャリング・キャパシティが変動したのではなく、妨げている要因がなくなったからである。

 中国の穀倉地帯では、古代から飛蝗の大発生による被害の記録が数限りなく残されている。ある種のバッタの幼虫は、生息数が増加して個体群の密度が増加すると、体型や生理的な特徴までが変化する。長時間の飛翔に耐えられるように羽と後肢が長く伸び、集団行動を好む凶暴な個体に変異するのだ。その進路にある植物はすべて喰い尽くされる。
 いわゆるバッタの群生相だが、外見も性質もあまりにも異なっているために、二〇世紀に入るまで普通のバッタとは別の種の昆虫と考えられていた。これを古代中国の人々は、飛蝗と呼んだのだ。

引用:『奇跡のリンゴ』
 穀倉地帯におけるバッタの立場で考えてみよう。
 本来だったら、肉食動物に捕食されて死んでしまう分まで想定して大量に産卵している。
 それが、人間が農業を始めたことによって、エサが多すぎて、成虫が増えすぎてしまったのだ。
 その結果、増えすぎた個体数に応じて、身体も性格も変化した。
 生息地が過密になってしまった結果だ。
 バッタのように新天地を求めて飛び出す動物は少ない。生息地を離れた個体の運命は、たいてい悲惨なものになるからだ。
 ただし、密度を減らしたおかげで、元の生息地に残った子孫は飢え死にすることはなくなる。

 人間をバッタに例えるのはいかがなものかと思うが、似たようなものかもしれない。
 増えすぎた人口をどうするか?
 凶暴化して他人を攻撃するのは、明らかな問題である。しかし、人口過密な状態でストレスを感じるな、という方が無理がある。
 それに、地球が大きくならない以上、土地も資源も限りがある。効率を上げろと言われても、限度がある。
 現代の人口減少は、本能的反応の結果なのかもしれない。
 事実、東京を含む首都圏では出生率が減少している。

グローバル・キャピタリズムの登場

 本能の話はさておき、狩猟採集生活を送っていた人間は、農業を始めることで、キャリング・キャパシティを上げることができた。
 そして、18世紀半ばから産業革命が始まると、さらに上げることができた。
 農業が主産業だった時代には、国民国家が生まれた。
 しかし、第一次産業革命による資本主義は、資本家と労働者という別の階級を生み出すことになる。そして、資本家が安価な資源と労働力を求めると、国境に妨げられたくなくなる。
 国境を越えて、安価な資源と労働力を手に入れたい―――――グローバル・キャピタリズムの登場である。

片や人口はどうかと言えば、安い労働力を手に入れるためには労働人口が多ければ多いほど有難い。今や、ほとんどの先進国の政権はグローバル・キャピタリズムの走狗なので、グローバル・キャピタリズムに奉仕することしか、考えられなくなっている。

 国家の立場で考えれば、国家経済のため、もっと安直に税金を徴収するために、資本家と手を組んだほうがいい。
 そして、その流れは、第二次、第三次、第四次産業革命となっても、流れは変わらない。
 しかし、グローバル・キャピタリズムにも問題がある。

労働者に賃金を支払う必要がなくなった企業は低コストで製品を作れるようになるが、問題は誰が買ってくれるのかということである。

 賃金や物価が安い新興国に工場をつくれば、低コストで生産できる。
 安価な労働力は手に入ったかもしれない。しかし、労働者の立場で考えれば、労働力が買いたたかれている。すなわち、賃金の減少である。
 給料が減れば、需要は減る。
 「グローバル・キャピタリズム」はそこまで考えていない。

「グローバル・キャピタリズム」に騙されない

 世界帝国も、資本主義も、「キャリング・キャパシティを増やせば人口が増える」という生態学の原理に基づいて成立していた。
 ところが、現在は、先進国の少子化は、「キャリング・キャパシティを増やしても、人口は増大しない」という、人類史上初めての事態に遭遇している。

 日本で人口が減少したのは、女性が子育て奴隷になることを拒否して、自分の幸福を追求し始めたからである。グローバル・キャピタリズムとその走狗である政治権力が、いくら子育ては素晴らしいという幻想を押し付けようとしても、金銭的にも時間的にも余裕がないほとんどの女性は、易々と騙されなかったわけだ。

 「女性が子育て奴隷」というと物議をかもすかもしれないが、男性も子育て奴隷ではない。
 そもそも、人間は、労働市場のために、消費市場のために、結婚をして子どもを産むわけではない。
 それに、自分がしている苦労を子どもにはさせたくはない。当たり前のことではないか。

子供の数が少なければ、大きくなってもコミュニティで暮らせるので、サラリーマンになって働かなければ生きていけないという強迫感から解放される。生産性を無理に上げる必要はなく、持続可能な範囲で土地を利用すればよいわけだから、労働時間も少なくて済む。

 考えてみれば、「人口を増加させなければならない」理由はない。
 繰り返すが、地球が大きくならない以上、土地にも資源にも限りがある。
 人口が減少すれば、一人ひとりの利用できる資源は増える。個人の幸福にもつながる。キャリング・キャパシティも解決する。
 つい50年前までは「人口爆発問題」だった。次の問題は「人口減少社会の未来学」である。
 「キャリング・キャパシティを増やせば人口が増える」という流れに乗らずに、幸福になることを考える。
 前提が変わったのだ。今までの価値観も変わっていく。
 主義も、主張も、戦略も、生活スタイルも、変化する。いや、変化し続けていく。

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