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【読書】『英仏百年戦争』【イギリスとフランスの成立】

 歴史は知りたい一コマだけを調べても、正しく理解できないことがある。

 これは西洋史でも東洋史でも日本史でも変わらない。
 「一コマ」だけ調べてしまうと、とんでもない間違いを犯してしまう。
 英仏百年戦争に話を戻す。ロビン・ネイランズによる『百年戦争』によると、平均的なイギリス人の認識では、英仏百年戦争はフランスではなく、イギリスの勝利で幕を下ろしている。

 自国の歴史を美化したがるのは、万国共通の衝動である。が、こうまで極端に史実を裏返されてしまっては、さすがに仰天せざるをえない。

 なんでそうなるのかといえば、偉大なる文豪シェークスピアの筆の力がすごすぎて、イギリス人はそう思ってしまうらしい。
 とはいえ、われわれはイギリス人ではないから、シェークスピアの影響を受けずにすんでいるから、客観的な立場で歴史認識できる―――――
―――――というのも間違いで、我々も客観的な立場で歴史を認識しているわけではない。「現代人」あるいは「21世紀に生きる人」という立場で主観的に認識している。
 主観的に認識することが過ちだというのは言い過ぎかもしれないが、事実は事実として認識していかないと、思い込みの罠にはまる。


前史

 1066年、ノルマンディ公ウィリアムがイングランド征服。イギリス史における「ノルマンディ朝」の成立である。
 とはいえ、ウィリアムは英語名で、フランス語ではギョーム。つまり、フランスの一豪族ノルマンディ公ギョームが海を越えてイングランドを征服したのである。
 イギリス人からしたら不愉快な事実だが、史実は史実である。
 とはいえ、ギョームもそれで一大帝国を築こう、などと考えてはない。事実、広大な領土を子どもたちに分割して相続させようとしていた。
 結局、四男アンリがノルマンディ公兼イングランド王になることで、分裂は回避された。

 1154年、イングランド王ヘンリー二世こと、アンリが即位する。そして、アンリは十歳年上のアリエノール・ダキテーヌと結婚した。アリエノールは再婚で、前夫はフランス王ルイ七世である。
 フランス王ルイ七世は驚いてばかりもいられない。激怒したとしても、報復には及べない。それは、アリエノール・ダキテーヌが、広大な領国の女主人だったからである。
 アンリの側から見れば、北はスコットランド国境から南はピレネ山脈まで連続する、途方もない勢力圏を手に入れたことになる。近年の歴史家は「アンジュー帝国」と呼ぶ。
 「アンジュー帝国」は、イギリス史の文脈でも、フランス史の文脈でも、うまく説明することができない。
 イギリス史の側から見れば「プランタジネット朝のイングランド王は大陸にも領土をもっていた」となるが、内実は「アンジュー帝国の一地方がイングランド」なのだ。
 フランス史の側から見ても、フランス王より広大で、フランスの範囲を超えた「アンジュー帝国」が登場しているのだ。

 フランス王はルイ七世からフィリップ二世、ノルマンディ公兼イングランド王の「アンジュー帝国」はアンリからリシャール(イギリス史ではリチャード一世)に継がれるのだが、フランス王フィリップ二世は攻勢をかける。
 初めは末弟ジャンをそそのかし、次いでアキテーヌの有力領主をそそのかし、反乱を起こさせる。
 フランス王フィリップ二世にとっての幸運は、リシャールが流れ矢に当たって落命してしまったことであろう。アンジュー帝国は末弟ジャンに引き継がれる。
 ジャンも、何を血迷ったのか、アングレーム伯家の女相続人イザベルに一目ぼれ、誘拐して結婚式を挙げるという暴挙に出る。
 イザベルの婚約者ラ・マルシュ伯はフランス王に訴えた。フランス王フィリップ二世は何もしなくても、ジャンが勝手に介入の口実を与えてくれたのである。
 大義名分を手にしたフィリップ二世は戦端を開く。ジャンに不満をもっていた領主貴族がフィリップ二世に応じると、展開は一方的である。
 ジャンは南アキテーヌ(ガスコーニュ地方)だけを残して大陸領を失う。
 フィリップ二世は「征服王」の異名を手に入れ、ジャンは「失地公」(英語では「失地王ジョン」)の汚名を手にすることになる。

 大陸の領土を奪われて、プランタジュネ家はイングランドに渡る。歴代の王は、大陸にしか目を向けていなかったのだが、以後、北に目を転じる。
 といっても、歴代の王たちは依然としてフランス語を話しフランス人だと思っていた。
 ちなみに、この間に十字軍が行われているのだから、歴史は一コマで理解してはならない。

本史

 フランスのカペー朝は、そもそも弱小王家だったが、直系男子に恵まれるという幸運から相続争いを回避、躍進を遂げる。
 しかし、フィリップ四世の息子が三人とも直系男子を残さず早世する。
 摂政としてフランスを治めていた従兄弟がフィリップ六世として即位、フランス史では「ヴァロワ朝の成立」である。
 ヴァロワ朝の交代に異議を唱えたのが、イングランド王エドワード三世である。エドワードからすれば母方の祖父がフィリップ四世、血のつながりがある。
 戦端が開かれる。
 これまでの「英仏百年戦争」では、イングランド王は大陸での領土保持のために戦っていた。しかし、エドワード三世からは異なる。フランスの「王位」を要求してしまったがために、フランス全土の征服まで課される。

 イングランド王は、ウェールズを征服する際、ウェールズ人の武器「長弓」に悩まされる。これを後日イングランド軍に採用する。
 フランス軍の戦術は騎馬隊が突っ込むだけのものである。そこに、イングランド軍は射程の長い「長弓」を連射、左右から挟撃するのだから、面白いように当たる。
 クレシー、ポワティエ、アザンクールとイギリス軍は勝ち星を重ねる。

 ポワティエの戦いで捕虜になった父王の身柄を取り返すため、王太子シャルルは三部会を開催する。三部会は、王家の姿勢に助言と同意を与えるための機関だったが、徐々に臨時課税のための機関に変質していった。
 ポワティエ後の惨状に、パリをはじめとする都市部が直接被害を受けたわけではない。しかし、農村部からの難民の流入と、通商路の麻痺に、そもそもせっかく金を出しても負けてくるのであれば、苛立ちは隠せない。
 王家から国政の権を取り上げる、すべて三部会の意志で行う、革命が起きようとしていた。
 王太子シャルルはパリを脱出、プロヴァンとコンピエーニュで別の三部会を開いて、軍資金を獲得、パリを攻囲し、帰還に成功する。
 王太子シャルルは三部会が使えることを発見していた。万民の意志を集約する議会と対立したことで、君主たるもの王国全体のことを考えなければならない、一領主の感覚から脱皮していた。
 戦争規模の拡大と有給制の軍隊は軍資金を膨張させたのに、財源は領地経営では、財政は苦しくなるだけである。のちのフランス絶対王政を支える財政改革を一代で軌道に乗せる。
 それに、庶民も困っていた。
 有給制の軍隊とは傭兵隊のことなのだが、戦争がなくなった傭兵隊は失業する。失業すれば盗賊となって国内を略奪する。
 財源を手に入れたシャルルは、盗賊化した傭兵隊に仕事を与え、カスティーリャ遠征に送り出す。そして、その中で最良の部隊を帰国させ、対イングランド戦線に投入する。
 盗賊化した傭兵隊を外国に追い出す。最良の部隊は常備軍として雇用する。おまけに、国内の治安も回復する。平穏が訪れたフランス国内の人々も税金に文句を言わなくなった。
 税収財政と常備軍は、王とパリからの中央集権システムであり、従来の封建システムに変わるものである。
 しかし、時代が早すぎた。国王課税は非常時を乗り切る施策としては受け入れられたが、危機が去ると反発が始まる。
 ブルターニュの反乱の時期から、重税反対の一揆も頻発するようになる。

 攻め込んだイングランド王のほうは、重要拠点を攻略して一気に攻め込もうとする積極派がオルレアンを包囲する。
 ここに有名なジャンヌ・ダルクが登場し、オルレアンは開放される。
 イングランド軍はオルレアンから撤退するが、その後のジャンヌ・ダルクも振るわない。結局、イングランド軍に捕らえられ火刑に処される。
 ジャンヌ・ダルクは、同時代の文書に「ラ・ピュセル」と俗称されたジャンヌでしかない。「ラ・ピュセル」というフランス語も、現代の辞書では、乙女とか処女とか出てくるが、十五世紀のニュアンスでは「下女」でしかない。せいぜい「娘さん」くらいである。
 生まれ故郷のドムレミ村と解放されたオルレアンだけで語り継がれる地域限定の昔話になった。救われたはずのフランス王シャルル七世ですら動いた形跡もない。
 ジャンヌ・ダルクが有名になったのは、ナポレオンが持ち出したからだ。かつての救国の英雄を自分に重ねあわて、国民の支持を集めようとしたからだ。

 とはいえ、この時代に「フランスを救え」という声が出始める。
 フランスにも「ナショナリズム」が生まれ始めていた。シャルル五世のときは上からの掛け声だったが、シャルル七世のときは下からの声である。
 シャルル七世は焦らなかった、慎重とも愚鈍とも評されるが、下から生まれる声を取り入れる形で財政改革と軍制改革を進める。イングランド王軍への反撃も、徐々に輪を狭めるという形で進める。

 ブルターニュ公フランソワ一世は、親フランスの立場を明確にしていた。ここに攻め込んだイングランド王国はブルージュを占拠する。ブルターニュ公はフランス王に訴え出る。
 大義名分を手に入れたフランス王シャルル七世は、イングランド領に兵を進める。はじめにノルマンディ、次いでアキテーヌを攻略し、英仏百年戦争は終える。

イギリスとフランスの成立

 最終的には外敵として排除されるという形になりながら、そもそもがイングランド王家は「フランス人」だった。一連の戦争はフランスという国が立ち現れていながら、フランスが複数の支配者に分断されているという矛盾を、あるいは国を治めるべきフランス王と競合し、ときに凌駕してしまうような支配者が別にいるという矛盾を、最終的に解決する過程であったともいえる。

 イングランド王家を追い払ったあと、ブルターニュ公、南アキテーヌ、ガスコーニュ諸侯も、フランス王家の支配に息苦しさを覚える。
 フランス人としてフランスという国を思う感覚があったとしても、既得権益を脅かされるとなれば、話は別になる。
 かくして、反乱、内乱が起きることになるが、シャルル七世の息子、ルイ十一世は果敢に鎮圧する。最後のブルターニュ公国は、次代のシャルル八世が最後の女相続人アンヌと結婚して、強引に手に入れる。
 かくして、ほぼ現在のフランスを統一する。

 大陸領土を失った、イギリスでは戦争責任を問う声が大きくなる。これがランカスター派とヨーク派に分かれての内乱に発展する。
 ランカスター派の最後の生き残り、リッチモンド伯ヘンリー・テューダーが勝利し、イングランド王ヘンリー七世として即位する。「テューダー朝の成立」である。
 イングランドに外様ともいえる諸侯はいなかったが、国政を左右する有力者はいた。それらの有力者がイングランド人同士が殺しあう内乱で、断絶するか疲弊して力を失ってしまったのだ。
 フランス王のように諸侯を掃討したわけではないが、結果として王の一人勝ちになった。

 「前史」を踏まえて考えると、イギリスとフランスの戦争でもなく、百年の戦争でもなく、古くから繰り広げてきた戦争の延長だったのである。
 領地の感覚が優先し、国の感覚は後回しだった時代に、イギリスとフランスの戦争など、はじめから設定はできない。
 とはいえ、「英仏百年戦争」はイングランド王、フランス王に、それぞれの国を一元的に支配できる力を、王家に与える形で終結している。
 誰よりイングランド王が「フランス人」であることをやめ、大陸に固執しないようになった。もう言葉も通じないからだ。

 英仏百年戦争は、イングランドとフランスが戦ったのではない。
 英仏百年戦争を通じて、イギリスとフランスが成立したのである。

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