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【読書】『人口減少社会の未来学』その5【相互扶助関係の再構築】

長期的な人口減少は、経済的な現象ではなく、資本主義の発展段階に必然的に起きる社会変化だというのが、わたし(平川克美さん)の立論の骨子である。

わたしは、『移行期的混乱』と『「移行期的混乱」以後』の中で、これらの考え方が、本末転倒したものであり、何故、人口減少に合わせて、経済成長しなくともやっていける戦略をつくらないのかと批判した。

 「高度経済成長時代」の戦略と、それが終わった後の戦略が、違っていて当然なのである。当たり前のことなんだけど。
 人口減少が社会変化の中で必然的に起きる変化なら、
「経済成長しなくてもやっていける戦略」
を考える必要がある。


市場化による社会変化


 「女性が子どもを産まなくなっている」はウソである。
 結婚すれば子どもを産んでいる。少子化の原因は、日本の場合は、晩婚化であることは多くの識者が指摘している。
 これについては、『データで読み解く「生涯独身」社会』がオススメである。

しかし、なぜ、晩婚化しているのかの原因については、簡単な理由を見つけ出すのは難しい。しかし、それがわからなければ晩婚化に歯止めをかけるような政策は導き出すことはできない。そもそも、個人が、どの年齢で結婚するかということに関しては、政治が介入することは不可能であり、してはならないことである。それこそ、個人の自由であるからだ。

 おっしゃるとおりである。

ひとつ明確なことは、日本の家族形態が権威主義的な大家族から、英米型の核家族へと移行したことである。この、家族形態の変化は、晩婚化と無関係ではないだろう。

お金さえあれば家族に頼らずとも、自由に生きていける時代になったということである。家族は、ひとが生きていくうえでの、安全保障だったが、市場化の進展によってお金こそが安全保障であると多くの人が考えるようになったのだ。

 こう書いてしまうと、
「結局、カネか」
と、ドライに思えてしまうが、そうではない。

 これも実際に、つい最近聞いた話なのだが、私の劇団の女優が●●県の出身者と結婚をした。二人は普段は東京で暮らしているのだが、法事で久しぶりに青森を訪ねた。家で開かれる法事だが、一人一万円の会費制ということだったので二万円を包んで持っていったのだが、一万円しかいらないと言う。若いから気を遣ってくれているのかと思ったらそうではなく、男性陣は居間で豪華な食事をとりながら酒を飲み、女性は延々と台所で働かされ、食事は立ったままで焼きそばだったそうだ(ちなみに旦那の方は食事をとっておいてくれたようだが)。
 どれだけ雇用を増やしたところで、いったい、こんな町にUターン者が来るだろうか。

(注:●●県は伏せました)
 これは本書で、平田オリザさんの言われていることだが、男の僕でも断ってしまうそうだ。
「東京でのんびりしてなよ」
と言う。
 地縁血縁の「つながり」のブラックな側面である。
 こういう地域から「逃げる」という選択肢を与えてくれたのが、市場化の進展で、お金が安全保障であると考えても無理からぬことだ。
 付記しておくが、これは「地域」の問題だけではなく、「会社」でも同じである。
 「終身雇用」が前提だと、
「はじめて入社した会社がブラック企業だったらどうしよう?」
 20前後の若者がそんなことの判断ができるわけがないのだから、運が悪いと、定年までブラック企業に勤めるハメになる。「リストラ」は、ブラック企業から逃げる自由を与えてくれたプラスの側面がある。
 資本主義の発展が、「選択の自由」を与えてくれた。これはマイナスではない。
 お金で幸せは買えないだろうけれど、不幸から脱出することはできる。

 逆に言うなら、権威主義のしがらみから自由になった個人が活躍する場が、市場化の進展によって確保されたということである。市場化こそ、日本の民主主義の進展を後押ししたとも言えるが、その意味では、晩婚化は自由と発展の代償であるといえるだろう。

 市場化とは、無縁化でもあり、有縁の共同体のモラルが及ばない場の拡張を意味する。ひとびとは、結婚を忌避して晩婚化したわけではない。むしろ、家族をふくめた有縁の共同体から、自らすすんで逃走しているのだ。その結果として、有縁の共同体である日本の権威主義的な直系家族も解体されていった。

 「逃走」というよりも、「選択の結果」だろう。
 ブラックな人間関係は忌避される。ホワイトな人間関係を求めているのだ。
 当たり前のことだ。

新しい家族の形態

 フランスでは99年、事実婚や同性愛のカップルに対し、税控除や社会保障などについて、結婚に準じる権利を付与するパクス(連帯市民協約)法が制定され、結婚や家族の考えが大きく変わった。

フランスやスウェーデンにおける少子化対策は、日本や韓国とは向かっている方向が逆で、法律婚で生まれた子どもでなくとも、同等の法的保護や社会的信用が与えられるようにすることであった。婚姻の奨励や、子育て支援といった個人の生活の分野には、政治権力が介入するべきではないと考えているからだ。

「1999年、どうだったろう?」
と思い出すと、「でき婚」と言われて「順番が逆でしょ」と言われていた時代である。
 それがフランスでは20年以上前から変わっていたのである。

ヨーロッパにおいては、法律婚に縛られない、もうひとつの家族共同体が現実的に先行しており、そうした法律婚に基づかない家族の権利を法的に認め、社会に位置づけようとしているということだろう。

 日本の場合には、家族形態は儒教的な価値観が濃厚な権威主義家族が崩壊し、核家族化したのだが、婚外子をもうけることをタブー視するような価値観だけは残り続けているということだろう。
 このことは、同性愛者に対する差別や、夫婦別姓に対する根強い抵抗といったこととも同根である。

 子どもの前で、だらしのないことはできない。
 以前、友だちの子どもの前で、割り箸のささくれをこすっていたら、しっかり真似されてしまいました。
 これは「擦り箸」という立派なマナー違反。悪いオトナでごめんなさい。
 悔い改めることになってしまったのでありました。

社会学者のイレーヌ・テリー氏は「家族を形作るのは結婚ではなく子どもになりつつある」としている。

 子どもが、新しい家族の形態をつくり、それが社会の紐帯になる、可能性がある。
 「今までこうだったから」が崩れたのなら、「これからこうしよう」を考えればいい。
 「子どもは社会が育てる」と考えれば、やはり、悪いマナーを子どもの前でやるわけにはいかない。

人類史的な相互扶助関係の再構築

しがらみから自由になることだけではなく、あらゆる人間関係の変更、モラルの変更を意味していた。

 お金は、人間関係の基層を支えていた、血縁、地縁といった縁故というものの束縛を受けずに、人が社会で生きていけるための道具だったからである。お金があれば、ひとが、他者とつながっていなくとも、自立して生きていくことは可能な時代になることが、社会的発展ということだった。そして、家族が解体しようが、村八分にあおうが、お金さえあれば生きていける世の中にはなったのだ。

 血縁、地縁というしがらみから自由になることはできた。
 問題だったのは、
「次の人間関係をどうやって作るか?」
「新しい社会的紐帯をそうやって作るか?」
を提示できなかったことにある。

 マルセル・モースの『贈与論』によるならば、貨幣以前の経済のモラルは、現在の等価交換のそれとは全く別のものであった。むしろ、倒立していたといえる。

絶えざる関係の清算こそが、資本主義の原動力である。関係の清算とは、商品と貨幣のトランザクション(取引)のことであり、このトランザクションを増やし続けることが、経済的成長ということだからである。貸借関係をそのまま維持することは、トランザクションの停止を意味することである。

 ジャレド・ダイアモンドさんの『昨日までの世界』が参考になる。「現代社会」と「伝統的社会」を対比して、様々な考察をしている。
 「伝統的社会」では、自分たちで作れるものでも、わざわざ取引して手に入れているのである。
 なぜ、わざわざ取引して手に入れるのか?
―――――人間関係を構築するためである。
 「現代社会」において、製品や商品の情報を入手するのは、比較的容易である。
 しかし、
「あの人は、どういう人なのか?」
という情報を入手するのは、どの時代でも困難である。
「スーパーに行ってサンマを買ってくる」
だけのことかもしれないが、信用できないスーパーに行かない。同様に、信用できない人にも近づきたくはない。

 共同体の運営基準は、損得ではなくてルールである。ルールに従えない人間は排除され、共同体の外部へと追いやられる。そうした追われたひとびとが生きていける唯一の場所が市庭だったのである。

「信用 = カネ」
ではない。
「信用 = ルールを守ることができるか」
なのである。
 ブラックな人間関係から逃げ出したとしても、自分がブラックな人間になってしまってはならない。ホワイトな人間になり、ホワイトな人間関係を作ららなければならない。

都市部の中に、家族に代わり得る共生のための場所を作り出していくこと。そして、人類史的な相互扶助のモラルを再構築してゆくこと。

 それが、どういうものかの結論を出せたらかっこいいんだけど。
 それを作り上げて次世代に託すことが、現役世代の役割であり、自分自身が幸せに生きる方法でもある。


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