【読書】『昨日までの世界』[上]①【交易の目的】
本書は、伝統的社会と現代社会を比較考察し、そこから判明する叡智を、日常生活や政策に反映させようと試みている。
ただし、いたずらに伝統的社会をユートピアと考えているわけではない。現代社会ではありえないような危険や不幸が含まれている。それに気づけば、現代社会の優れた点を、改めて理解できる。
しかし、だからといって、伝統的社会がディストピアだと決めつけるわけでもない。忘れ去ったものや、打ち捨ててしまったものを、再度、現代社会に取り入れたほうが良いと思われるものもあるからだ。
伝統的社会であろうと、現代社会であろうと、人類誕生から現在までどうやって生活を営むかの社会実験を行ってきた結果なのである。
どのような社会であろうと、良いところと悪いところがある。比較考察することで、新たに気づくことや、改めて考えるきっかけとなるだろう。
ちなみに、伝統的社会と現代社会の間には、さまざまなグラデーションがある。原始時代と現代社会はハッキリと違うが、戦前と戦後でもハッキリと違う。
また、大規模社会と小規模社会といっても、100万人都市から100人前後の村落まで、その間には様々なグラデーションがある。
極端な白黒思考は好ましいものではないが、だからといってそこに明確な線を引こうとすると、ものすごく長くなってしまうので、割愛する。
移動の自由
伝統的社会と現代社会の違いの一つに、移動の自由がある。
現代社会は、外国であったとしてもパスポートがあれば入国できる。道路を歩いているだけで怒られることはない。奇妙な雄たけびを上げながら暴走していたら別問題だけれども。
それに対して、伝統的社会では生まれ育った土地から離れることは稀で、たいていは、よその土地を知らないでいる。
明確に土地の境界線を引いている社会もあれば、本人たちも分からないぐらい曖昧な形で土地の境界線を意識している社会もある。
自分たちで消費しきれないぐらいの資源があれば、ほかの集団がその資源を利用することを容認している社会もある。そのような社会でも、土地の境界線は意識されている。
「土地の境界線がある」ということは現代社会でも伝統的社会でも共通している。
しかし、それを越えて移動する自由があるかと問われると、現代社会に比べると伝統的社会は著しく制限されている。
友人、敵、見知らぬ人
伝統的社会の場合、友人であろうと敵であろうと、個人情報をもっていて、その人物の名前や、自分とどのような関係にあるか、時にはその人物の風貌まで知っている。
一方で、見知らぬ他人に出会うことは、ほとんどといっていいほど稀なのである。
なぜ、そのようなことになってしまうのか?
例えば、
集団A =[友好関係]= 集団B =[友好関係]= 集団C
という状況があったとしよう。この状況で集団Aの人間が集団Cとも友好関係だと思い込んで、集団Cの領域に遊びに行ってしまったとしよう。
ところが、知らない間に、
集団B ≠[敵対関係]≠ 集団C
になっていたら、どうするのか?
集団Cの人間からすれば、集団Aの人間も敵対関係になっているから、遊びに行ってしまった集団Aの人間は殺されてしまうのである。
伝統的社会では、ほんの些細なことで武力衝突に発展してしまう怖れがある。
それに、集団はABCの三つではなく、数多くあり、それが複雑に絡み合っている。二次的隣接集団ですら知らない間に状況が変わっていた、ということがあるのに、三次的、四次的・・・・・となったら、情報を持ち合わせることは不可能なのである。
このような状況では、まったく見知らぬ土地に足を踏み入れるということは、危険極まりない。知らない間に敵対関係になっていたり、敵対感情を持たれていたりするからだ。
伝統的社会に住む人々にとっては、見知らぬ土地に足を踏み入れるのは自殺行為なのだ。
逆の立場で見れば、不慣れな土地を進むことは自殺行為なのに、その危険を冒してやってきたからには、悪い企みがあるに違いない、と判断されて、殺されてしまうのである。
船が難破して漂流してしまっただけなのに、命からがらたどり着いた島が見知らぬ他人の島であったというだけなのに、不幸にも殺されてしまうことすらある。そして、それは彼らの社会では許容されている。
伝統的社会では、敵はもちろん、見知らぬ他人であっても遭遇するのを避けるために、土地の境界線が意識されているのである。
それが「ファーストコンタクト」と呼ばれる西洋文明との最初の接触で、いきなり終止符を打たれる。
人類史上、最後にして最大のファーストコンタクトはニューギニア高地人であったと思われる。
「ファーストコンタクト」から50年後に改めて、当時の両者から取材した記録が残されている。なかなかに興味深いものである。
「ファーストコンタクト」があるまで、伝統的社会では自分の集団と隣接集団の情報しか持ち合わせることができなかったのである。ゆえに、伝統的社会では移動の自由がなかったのである。
交易の目的
いまだに伝統的な衣食住の生活を行っている集団は存在する。
だからといって、すべてを自給自足で完結し、交易を全くしない、という集団は存在しない。
しかし、その交易は近隣集団にかぎられる。二次的以上の集団と交易することは、上述した理由で危険極まりないからである。
伝統的社会であろうと、現代社会であろうと、自分は持っているけれども相手が持っておらず、しかしそれが必要なものであるモノを取引するのは共通である。
ハッキリと異なるのは、伝統的社会では、やろうと思えば自給自足可能なものでも、わざわざ取引して手に入れているのである。
なぜ、自給自足が可能なものでも取引して手に入れるのか?
結論から先に言えば、同盟関係の強化である。
彼らの取引は、物品の需給関係に基づくものではない。物品を必要とする相手にその物品を届ける、これが動機である。
些細なことがきっかけで、簡単に武力衝突が発生するような伝統的社会では、取引を通じてお互いの友好関係を確認して深めているのである。
たしかに、なんのために働いているのか? を考えてみたほうがいいだろう。
たとえばこんなこと
私の知る範囲から指摘できるのは、車を乗り回して見せびらしているけれど、
「じゃあ中身は?」
と問われると、はなはだ残念な結果になる人がいる。
そういう輩とは友好関係を築こうとは思わない。見知らぬ他人になって欲しいと、切に願っている。そのような人間と取引など、まっぴらごめんである。
取引というものは、金銭が絡むものであっても金銭が絡まないものであっても、友好関係の樹立に役立つと私は信じている(そういうことを全く考えていない人間がいることも事実だが)。
まったく見知らぬ他人であっても、取引を繰り返しているうちに、気がついたら友好関係を築けたことは数多くある。
友好関係を築くために取引するという考え方は、伝統的社会を見て再確認したことである。
(とはいっても、はじめから友好関係の樹立の興味がなく、敵愾心だけ燃やしてくるような相手であれば不可能である)
私の交友関係はさもしいので、読書の方のお役に立てそうな例として、『メンタルが強い人がやめた13の習慣』―――09「人の成功に嫉妬する習慣」をやめる、からエピソードを引用したいと思う。
ここで出てくるダンという男性は、気さくで社交的、素敵な家、一流企業での仕事、美しい妻に二人の元気な子供たち、と一見してすべての幸せを手にしている―――――
―――――ように見えるのだが、ダン本人は違った。
請求書の支払いのために遅くまで残業しなければならず、疲れてイライラしている。すぐにかっとするするのをどうにかしようと、セラピーに助けを求めた。
私は、高級品を否定しているわけではない。それを持っていることにより幸せを感じているのであれば、高級品を持っていたほうがいい。これは個人の自由なので、それを否定しているわけではないのだ。
しかし、家族と一緒にいることに幸せを感じるのに、周囲に張り合うためだけに働き、それでストレスを感じるのであれば、なんのために働いているのかわからない。
人間だれしも幸せになる自由はある。そしてその手段も方法も自由である。
「幸せになるためにはどうしたらいいか?」
を一度、考えてみるべきであろう。
私には、ただただ宝石とか高級スポーツカーを手に入れて人にみせびらかしたいがためにしゃにむに働くアメリカ人が(そうではないアメリカ人もいるけれど)幸せだとは思えない。
年の終わりに可能な限りの豚を饗して大宴会をするシアシ族のほうが幸せに思える。