目標:note月イチ以上更新
あけましておめでとうございます。明けても世界は戦時中で、日本においては地震が発生してしまって油断も楽観もできないのが続きますね。いずれも、一刻も早い収束と被災者の救済が進みますように。
年末に実家に帰省した途端、同じく帰省してきた弟がノロウイルスと思しき症状でダウンした。弟は人間ポンプとして年を越したため、やっと回復した昼頃に「いまって何年ですか?」とタイムトラベラーになっていた。大事に至らなくてよかったが、私は嘔吐恐怖症なのでここから数日間発症に怯えることになる。あまり清々しい始まりとは言えない。
年末からゲロと下痢に怯えていたので2023年の総括をせずに行く年を見送った。「来年の抱負は?」と問われても、まず今年の収束がついていなかったので「飛翔の年にします」とニュートラルな答えしかできなかった。ここで一度、今と
地続きの2023年を振り返りたい。
理不尽には慣れない
何度も何度も自分の肉体の不備を説明した一年だった。職場、家族、同期の友人、パートナー。どれもわかってもらえている気はしない。何度も自分の伝達力不足に悩まされた。鬱も子宮内膜症も、多分、本当に理解を得られていない。なんとか復職には漕ぎ着けたが、別に理解がある職場でもないし、これからも何かと聞かれ続け、疑われ続け、失職に怯えることになると思う。
自分が女に生まれたことへの絶望も変わらなかった。女という属性だけで取り返しのつかない危険に遭う可能性が高くて、社会的にも救済されないケースがあること。さまざまなニュースから今年は特に強く感じた。ススキノ頭部切断事件では被害者のトランスジェンダーの姿にモザイクがかけられている。五ノ井里奈さんが告発した自衛隊セクハラ・パワハラ事件の加害者男性の顔は掲載されておらず、マスク姿のみの媒体もあった。相変わらず乳児死体遺棄は母親のみを裁く。この現実の前で、”トランスジェンダー”はやはり私には空想にしか思えない。”弱者男性”はファッションにしか感じられない。フェミニズムは真剣に、女が犯されず殺されず社会から排斥されないために戦っているんだ。君たちのお遊びに巻き込まないでくれ、頼むから。トイレやロッカーに入れろ同性として扱えとか、警戒するな優しくしろ経済的にも支えろとか、彼らの主張は、傷病者の私にみんなと同じように黙ってフルタイムで働けと言う会社の人事の対応と同じだ。こっちの事情は全く飲み込まないくせ、ウチらも大変なんですけど?と被害者ぶって当然のように要求ばっかりしやがって。加害者は私たちでなく一部の強者男性が権力を握る社会構造なのに、その構造を壊そうとする”フェミ”を揶揄して攻撃している奴隷の心理。
こういった非対称の理不尽を、今年も飲み込めないと思う。ゴールデンカムイで、和人にアイヌの少女が差別発言を投げかけられるシーンがある。これに主人公の和人は怒り、一方でアイヌの少女は平然として慣れていると言う。それを見て主人公が「慣れる必要がどこにある」と思う。このシーンが大好きだ。我々が加害者になったとき、被害者の怒りを、飲み込ませて黙らせる卑劣さは絶対的に間違っている。また、被害者になったときには、何度でもどんな時でも声を上げるべきだ。指原莉乃さんの松本人志を告発した女性へのセカンドレイプを嗜めたコメントを読んで、そんなことを考えた。
夢の外に連れてった
社会に対しての気持ちはそんなところだ。昨年と地続きで失望を抱えており、しかし理不尽を諦めたくない。少しでもインパクトを与えられるメディアを作れたら最高だと思う。そのために、また言葉や表現を突き詰めたい気もする。しかし、それを断言できない部分もある。
2023年は宣伝会議 編集ライター講座に参加し、卒論まで完了した。この講座は三年前からいつか受けたいと思っていた。いつか文筆で生計を立てたいと考えていた。休職時に、あれ?この会社もうダメじゃない?「いつか」って「今」か?と思って受講を申し込んだ。休職中のだるい体に、夢に向かって歩き出せるかも、という希望が沸いた。そして、実際に受講した感想は、「現実の解像度が上がっただけ」です。実際になにかを学んで思うことはいつもこれ。これさえやれば人生が好転するかもしれない、と初始めて、そんなに甘くねえなと納得する。学ぶというのは「これさえあれば」を「これだけあったとて」に転落させることでもあると思う。
しかし、本当に、宣伝会議の講座関係者の皆様には感謝しています。業界の現在、プロダクション所属やフリーランスという生き方、求められるスキルの詳細を知ることができた。受ける前までは、今の仕事が嫌になったら貯金を食いつぶしながらライターになろうと思っていた。この講座は、その甘ったれた夢を見る隙間を埋めてくれた。昨年、思い切ってやってよかったことの一つだ。
興味がある方はご検討ください。来季は一月からの受講者募集をしています。
仕方のない自分で生きる
ライター講座に関しては、自分の中にあった仮説を補強してしまったところがある。この講座では、卒業制作で、インタビューを前提とした記事を作成することになっている。私もある方にインタビューをさせていただき、それを元に記事を書いた。これがかなり二次創作に近く、同じ種類の苦悩を味わった。特に、今回私は言語化に長けた、ユーモア溢れる方にインタビューしたことも相まって、自分の解釈した記事を繰り返し見直しては「こんなん、インタビューの録音音源の方がおもろいですやん」とMac Book Airをひっくり返した。生の方が面白い。基本的に、他人からの解釈なんてクソなのだ。二次創作をやったことのある方ならば分かると思う。どんなに自分で面白いと思って書いても、盲目的に自己解釈を思い込んでもそんなものはただの遊びだ。ただの一度も0から1を作り出す「本物」を超えることはできない。
二次創作、批評を真剣にやっている方に聞いてほしい曲がポルノグラフィティの「パレット」だ。ファンにの中では名曲と名高いこの曲、アルバムにしか収録されていないために知名度が低いのが悔やまれる。以下、一部歌詞を引用する。
頭が下がる。新藤晴一は独特の捻くれた言い回しのイメージが強いが、この曲はかなり直球な歌詞である。サビはさらにこの論点を掘り下げている。サビが「だって」から始まるの、あまりにも言いたいことが多くて面白い。
これはもう、文章を書く人間は全員胸を刺されるのではないか。自然や人からきっかけを得て創作活動をするときに、そのものを決して媒体に写し取れない。これは現実とは無関係のフィクションです!と胸を張って言えない全てのメディアは、この写実性の限界から自分の仕事が驕るに足らないものだということを思い知らされる。ちなみに、この曲はラストで「もうメロディに身を任せてしまえ」と言い出し、ラララで歌い切るという有言実行を見せてきてちょっと面白い。批評的な活動をしている方はぜひ聞いてほしいし、あまり調子に乗らないでほしい。私も気をつけます。
一方で、これはもう自分の一種の性癖として、私は書くことでしか世界にアクセスできないことが身に染みて分かった。どこにも披露しないとなると半端な知識でいいように思えてしまうし、どうしてもリサーチが甘くなる。利他を叩き込まれて育った人間あるあるだろうか?純粋に自分のためだけに行動できないという私の性質上、どこかにウケるというごくごく希薄な可能性がないと、触手を動かすことが難しい。他者承認が必要な悲しきモンスターが、社会の邪魔こと老害にならない形で生きていくためには、本当に山に籠るか、他人の目を想定して書くしかないかもしれない。
今年も祈るしかない
そういうわけで、他人や現象を勝手に解釈して書いていく下賤な行いを死ぬまでやると思う。まずはnoteの更新を頻繁にしていきたいと思っています。
そこで課題になるのが肉体と精神の強度の低さだ。体力がない。すぐに感染症や持病で寝込むし鬱転する。少しでもその頻度と期間が少なくなるようにどうすればいいかというと、解決策はおそらくない。薄々わかってきたのは、自分の肉体や精神も一つの自然で、完全に解釈することはできず、制御できるものでもない。たぶん、祈るしかない。もしかしたら、昨年の絶不調は信仰心の欠如のせいだったかもしれない。今年は初詣に行こう。何にでも祈り、縋って生きていこうと思う。それが今年の抱負です。引き続き、最大限やってダメならリタイアするだけ、の気持ちで行きます。よろしくお願いします。