「執着」について考えてみた
意外と誰にでもある、意外と身近で、でも意外と対処法がわからない…「執着」について考えてみました。
執着とは
【執着】
一つのことに心をとらわれて、そこから離れられないこと。(goo国語辞典より)
なお、「執着」という言葉は仏教用語が語源で、もともとの読み方は「しゅうじゃく」だそうです。現代では、一般的に「しゅうちゃく」と読まれることが多い言葉です。
執着によって心身に悪影響が…
例えば、誰かに執着してしまうと、その人に好かれたい、一緒にいたい、こちらに意識を向けたいという気持ちから、自分がどうしたいかではなく、その人が自分をどう見ているか、どうあって欲しいのかを推測して行動に反映させてしまいます。
そのため、誰かや何かに執着を持ちやすい人は、無意識に他人から望まれる行動を優先してしまうがために、いつも自分が本来望む選択をできなくなり、いつのまにか本来の自分自身は周囲から望まれていないと感じながら過ごすことになってしまいます。
その結果、自分は周囲から大切にされていない、自分はいつも雑に扱われるといった感じ方の傾向が常在化して、そのため余計に誰かや何かにしがみ付いたり、すがったりして執着が強固なものとなり、悪循環に陥るのです。こうして、進行的に精神や心をすり減らしていくことになってしまいます。
執着≒依存?
【依存】
他に頼って存在、または生活すること。(goo国語辞典より)
執着と依存、言葉自体の意味はイコールではありません。でも、何かに対する執着を手放すことができない状態と、何かに依存している状態は、よく似ています。
また、双方からの依存が存在する共依存という状態も、執着し合っているという言葉に言い換えができそうです。
【共依存】
特定の人間関係に依存する状態。自己の存在意義を認めてもらおうとして過剰な献身をくり返すなどの行為がみられる。DV(ドメスティックバイオレンス)を受けた女性が、「自分が至らないために起こった」と考えて暴力に耐え、人間関係を解消できないなどの例がある。(goo国語辞典より)
程度にもよりますが、執着を持ちやすい人はこのような傾向から、虐待・DVの加害者や被害者になりやすいとも考えられます。
近年、ライブ配信アプリなどが流行しており、その課金制度や投げ銭で生計を立てる人も増えているようです。こういった配信者と課金する側との関係にも、共依存的なものを感じてしまう場合があります。ファンが配信者に対して執着を持っていることは多いですが、逆に配信者もファンやファンの数に対し執着を持っているともいえます。ファンをいかに自分に対して執着させるか。執着ビジネスとも呼べそうです。
執着しなくて済むもの
完全に手に入れたものなら…。すでに手に入れており、取り上げられることがないものなら、執着などしません。する必要がないのですから。
以前に歌手のCoccoさんのインタビュー記事で、「声が好きと言われるのが一番嬉しい。声は自分が最初から持っているものだから、素直に手放しで喜べるから。」といった趣旨の回答をされていたのを読んだことがあります。
歌がうまいとか、良い詞を書くとかいったことは、その歌手の練習成果であり努力や才能の結晶です。また、他者との比較で生じる評価でもあります。ですから、「歌がうまい」と褒められれば、他よりも歌がうまいという評価に対する執着が生まれ得ます。自分はこの状態を確保するために、他より歌がうまくなくてはいけない、練習しなければいけない、才能を発揮しなくてはいけない、と過剰なプレッシャーとなる場合もあるでしょう。
ところが、「声が好き」はそうではありません。その人の声はもともとその人しか持っていないものであり、好きか嫌いかは、ただただ相手の主観的な感想であり、そこにはその人が執着を持って何か行動するような余地がないのです。
執着を手放すには
このように、執着する必要がないものというのは、とても少ないように思います。人、仕事、物、お金、どんなものに対してでも、誰しも執着してしまうことが少なからずあるのではないでしょうか。
しかし、程度に関わらず執着はストレスの大きな原因となります。ときには、そのストレスによって、好きだったことを好きであり続けることすら難しくなることもあるでしょう。
好きなこと、好きなもの、好きな人をずっと好きでいるには、執着を手放して、大切にできる心を整えることが必要だと考えられます。
逆に、執着を手放すには、心を整えて好きな気持ちを大切にできる環境が必要だと思います。そして、その環境は、自分で自分の気持ちと相談して、整えなければならないのではないでしょうか。
具体的には、自分の周りに置く物、食べる物、読む物、見る物、交流する人、行く場所。それらのひとつひとつを、自分自身と向き合い、自分の気持ちと相談して、自分で選択していくことが、執着を手放す第一歩ではないかと考えています。