猫の街
ふるびた地図に目をやった。この町は猫の街、とよばれているらしい。
旅人は町の入口に立っていた。白い石壁づくりの家が延々と並び、こんなにも晴々としたよい天気だというのに、人っこ一人歩いていない。不思議な静けさに満ちた街だった。
旅人は、好奇心から街の中へ一歩を踏み出した。一本道の長い坂が続いている。両側には白い壁がひろがり、足元の石畳だけがうすい灰色をしている。草一本も生えていないが、家のかたわらには時折植木鉢が置いてあるところを見ると、ここにも誰かしら住人がいるのだろう。ここまでさまざまな町を見てきたが、猫が草の世話をする、という話は、さすがに聞いたことがない。
両側がふさがれているというのに、圧迫感はなかった。頭上に抜ける青空のせいだろうか、それもまた不思議だった。
坂をのぼりはじめてやや時間が経つと、しだいに町のようすに変化が出てきた。一本道だった坂のそこかしこが枝分かれするようになり、そのあちこちから、猫がすがたをあらわすのである。三毛猫、どら猫、ぶち、ソックス、さまざまな柄がいたが、黒猫だけは一匹たりとも見つからない。
この町の猫は人懐こかった。それでいて、貪欲だった。旅人の背負っている荷物のなかから、食べ物のにおいがするのを嗅ぎ付けると、にゃあにゃあとしきりに鳴きながら後をついてきた。さながらハーメルンの笛吹きのように、旅人のあとには猫の行列が続いている。
旅人はとうとう観念して、荷をおろした。そのなかにはいっぱいのパンと、安物の葡萄酒が入っていた。葡萄酒のびんを坂道に置いてやると、酒瓶はごろごろ下へ転がっていって、やがて壁にぶち当たって砕けた。猫達は割れた硝子を器用に避けながら、ぶちまけられた葡萄酒を一心にすすっていた。猫に酒の味なんてわかるのだろうかと、旅人は首をかしげた。
やがて坂の頂上につくと、一軒の立派な屋敷があるのが目に入った。ノックして扉を開けると、中から出てきたのは背の高い人影であった。
しかし、よく見ると人ではなかった。
そこの主人は大きな黒猫で、紳士服を着て、山高帽を被っていた。この場合は猫影とでもいうべきなのだろうか、彼は人語を介した。はるばる大変だったでしょう、といって旅人をねぎらい、一夜の宿を提供しましょうと快く申し出てくれた。
猫の屋敷には簡素な客室が用意されていた。簡素ながらも、ふかふかのベットからはあまい太陽の匂いがして、疲れていた旅人は、深く深く眠りこけてしまった。
旅人は、夢の中で一匹の猫になって、しずかな湖畔のふちで自分の顔を眺めていた。夜だった。湖面には、団子のような月がうかんでいる。そして旅人は意を決したように、ちいさな後ろ足で地を蹴って、頭上の月をめがけて走り出した。
上へ上へ行くと、湖畔を見下ろせるがけっぷちに辿りついた。見下ろした先は一面の林で、とおくに月が見えていた。なぜだか飛べる気がして、旅人は猫の足で地を蹴った。そのまま真っ逆さまに落下して――湖に沈んだ。
目が覚めた。昨夜のことは夢だったのだろう。すぐさまこの奇妙な夢を日記に書きつけようと思い、枕元を探ったら、獣の前脚が見えた。人間のことばを話そうと思ったが、なぜか口がきけない。代わりににゃあ、という声が出て、屋敷の主人がお目覚めですかと微笑んだ。
朝食はミルクだった。何かがおかしいような気がしたが、やがてそんなことはどうでもよくなった。
さあ、そんな事より外に出よう。
今日も暖かい日向で眠りにつき、人間を冷やかして遊ぶのだ。我々はそういう生き物なのだから。
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