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家庭崩壊

前回の記事の続きになります。
僕の経験を書いておりますので、一緒に読んで頂けたら読み易いかもしれません。

ただ、乱筆なのでそこだけはご容赦下さい。

事件の夜

事件の後、僕と弟は警察署に一時的に預けらていたが、父親が引き取りに来た。

弟は乳児院へそのまま行くことになり、家に帰れたのは僕だけだった。

家に帰れた時、室内はいつも通りだった。
いつもと違うのは母と弟がいないこと。

父親に話しかけちゃいけない様な雰囲気を感じて警察署から家までほとんど会話はなかった。

帰宅してすぐに、父親がレトルトカレーを作ってくれた。
茶碗にご飯をよそってから皿に移して山にしてそこにカレーを掛けてくれたが、汚かったので凄く記憶に残っている。
多分、一生懸命お子様ランチみたいにやってくれたんだと思う。

「食べたらとりあえず寝ろ」
と父親は言いながらそのカレーを出してくれた。

僕は、カレーを食べながらの流れで
「ママはどこに行ったの?」
と聞いた。

「死んだ」

と一言だけ父親は答えた。

正直、僕は記憶力にはわりと自信があって幼少期の記憶もしっかり残っているのだが、父親が言った言葉の後から母の葬式の後まで記憶がポカンと抜けてまったくない。

たしかその後、泣きながら布団に入った気がする。
でもその後の記憶がびっくりするほどまったくない。

祖母の家へ

記憶は飛んで葬式の後になる。
生まれてはじめてみる上野駅のホームは凄かった。
いろんな電車が止まっていて、祖母は『特急あさま』を指差してこれに乗るんだと教えてくれた。

「これからは私のことをお母さんって呼ぶんだよ」
祖母は、ホームで言った。

それから長野の田舎町で祖母と一緒に暮らすことになった。

後から聞いた話、この時はまだずっと一緒に暮らす予定ではなかったそうだ。

一時的に預かって、母の裁判や墓や諸々終わって落ち着き次第、東京に帰る予定だったそうだ。

父親が諸々建て直すまでの期間。
でも父親は建て直すことはしなかった。

祖母が経済的に大変だろうと用意した数百万円を父親はギャンブルに使ってほとんど失い、結局僕と弟で暮らすことはなかった。

少し後の話になるが、また新しいフィリピン人の女を見つけ知らないうちに再婚していた。
気づいたら腹違いの妹が二人もいた。
再婚して経済的にきついからと祖母に金の無心もしてきていたそうだ。

僕は、子供だったからか詳細はほとんど知らされなかったが、祖母はことあるごとに
「あんたの父親はダメ人間」
と言っていた。

悪さして怒らると、親がフィリピン人だからとか父親がダメ人間だからといつも言われた。

祖母は、本当に一生懸命育ててくれたと思う。

そこには、本当に感謝しかなく何にも恩返しできないまま亡くなってしまったけれど、僕は祖母に育てて貰ったことは幸せに思う。

年金ぐらしで金なしで、家もボロボロでそれが原因でいじめられたけど本当にいい祖母だった。

ただ、性格は見栄っ張りで世間体をとにかく気にする昭和気質。
フィリピン人の孫っていうこともあんまり良く思ってなかったし、ずっとお荷物だお荷物だって言われ続けてきた。

他所からおばあちゃんが育ててるからねって言われるのを本気で嫌がっていて、だから悪さするなって、凄く言われた。

ほんとに、ツンデレかよってくらい普段からお前はダメなお荷物で厄介者、貧乏神、貧乏くじって散々言われるけど、ちゃんとお母さんだった。

いい祖母だった。
めちゃくちゃ苦労掛けたと思う。

僕の息子が生まれてすぐ祖母は亡くなってしまった。

最後にあったのは、病室で息子が奥さんのお腹の中にいて奥さんをはじめて紹介した時だった。

祖母は、
「家族が増えるってお金掛かるぞ」

それが最後の会話だった。
いかにも祖母らしい言葉だった。

奥さんは、祖母もニコニコしてたし、お金のワードで冗談くらいに感じたかもしれないけれど僕には、凄く刺さった。

ほんとにずーっとお金に困ったからこその一言だったと思う。

子供のころ、夜中にトイレに起きると祖母がどこかに金策の電話してた。

でも意地っ張りで見栄っ張りだから、外に出るときは小綺麗にして貧乏は見せない様にしてた。

もし、誰か1日だけ生き返せてって出来るのであれば、僕は多分、母じゃなくて祖母を選ぶと思う。
温泉でも大好きだったローストビーフでも食べさせてあげたい。

祖母には、なにも恩返し出来なかったです。

祖母との生活、長野での生活をここで書こうと思っていたのに、なんだか違う方向で書いてしまいました。

また別で書きたいと思います。

祖母が倒れて一人暮らしして、児童相談所が来て、児童養護施設に言って弟と再会した話や、児童養護施設ってこんな所だったという話も今後書いていきたいと思います。

最後に

書こうと思っていた内容と大分ずれてしまいましたが、noteはじめて色々書いてて思ったのは、最近、親ガチャなんて言葉があるけれど、僕はどちらかというと親ガチャは大ハズレだと思います。

でも、今は楽しく生きてるし、なんとかなってきた人生です。

どこぞの社長の息子に生まれていれば、とか考えたこともあるけれど、きっとそれはそれでそれなりの大変さもあると思います。

親ガチャは、引き直しできないし逆に外れたのであれば、幸せのハードルがめちゃくちゃ低いってことになる訳で、とにかく今を楽しめればいいんじゃないかなって思います。

僕の場合、白米食べれるだけで幸せ感じれます。

ずっと小麦粉を水で練って汁に浮かせるやつばっかり子供の時食べてたんで、本当に幸せです。

また脱線してますけど、今しんどくて悩んでる方が、もしこの記事に出会ったとしたら明日とかその先に絶対いいことあるから頑張ろうぜってことです!

最後の最後に薄っぺらくなりましたが、もし僕の経験からなにか感じてくれたら嬉しいです。

最後までお付き合い頂きありがとうございました。

また懲りずにお付き合い下さい。






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