音楽の単一言語使用

私は、芸術作品やアートを語るうえで、どれだけ理論的に批評しようと、言語によってはどうしても説明しきれない部分があると考えています。多くの本を読み、思想を学び、批評的言語能力を磨いても、作品や芸術に内在する“語り得ない要素”は常に存在している。だからこそ、批評を言語や理性だけで完結させてしまうのは危険であり、むしろ芸術体験を狭めてしまう可能性があるのではないだろうか。

一方で、理性(言語)によって示される論理にも一種の正しさがあることは否定しません。しかし、私たちの感性は言語によってかなり支配されているという問題があり、理性と感性がどのように有機的に結びつくのかが大きな論点になります。ある人が言語的知識に偏れば、その人の感性は言語の枠組みに縛られた感性になりかねませんし、逆に言語をほとんど使わない芸術の受容にも別の問題があるかもしれません。

こうした議論に類似した問題は、近年では図像をめぐる考察で顕著になってきました。20世紀後半から21世紀にかけて、美術史学や哲学のなかで、ゴットフリート・ベーム(Gottfried Boehm)をはじめとする研究者たちが「図像の哲学」を展開している。従来の美術史学ではイコノロジー(iconology)が主流で、作品内のモチーフや作者の背景・時代的文脈などを言語で分析・総合して作品を解き明かそうとしてきました。しかし、ベームは「図像には図像固有の論理がある」と主張します。

図像を理解するには、見る者が持つ知識や経験、背景理解が無意識的あるいは意識的に作用するため、ただ絵を眺めるだけではなく、言語による補完も必要になる。けれども、図像の内側には言語化できない意味の層や差異が存在し、それらは言葉の論理だけでは把握しきれない。私たちが広告の写真などを見て「ビールを持つ人物」を理解できるのも、背景知識があって初めて絵として読み取れるからですが、その過程そのものをすべて言葉で説明するのは難しいのです。こうして「言語を介した理解」と「言語を超えた要素」とのせめぎ合いが、図像に限らず芸術全般に存在するといえます。

では、音楽の場合はどうでしょうか。実は図像についてのこうした議論は進んできましたが、音楽においては言語と感性の関係があまり深く論じられてこなかったように思います。しかし、私たちが普段耳にする多くの音楽は「調性音楽」という西洋由来の枠組み、つまり和声(コード)による文脈構築をベースにした“言語”に依拠しています。ポップスやロック、フリージャズ以外のジャズ、クラシックなど、大半のジャンルが調性を前提にしているのです。

調性音楽から逸脱する試みとして無調音楽が生まれましたが、いま私たちが日常的に耳にする主流は依然として調性に基づく音楽が中心です。クラシック音楽も、17世紀以降に体系化された和声理論に基づいており、その歴史は中世のキリスト教教会音楽にさかのぼります。言い換えれば、調性とは教会音楽の文脈の中で形成された「言語」であり、私たちはそれを現代に至るまで保守的に使い続けているのです。

もちろん、私は現代の調性音楽であっても芸術的価値を認めないわけではありません。しかし、前述した図像の論理が指摘するように、既存の言語(この場合は和声理論)では説明しきれない要素や、もっと言えば言語そのものが本来もつ制約も考えなければいけない。モード・ジャズや無調音楽などの試みがポップカルチャーに大きく広まらなかった背景には、私たちが調性音楽という“聴きやすい言語”を無意識に選り好みしているという保守的な側面があるのでしょう。

こうした音楽の話とは別のようにも見えますが、実は現代美術にも共通する面があります。かつてマルセル・デュシャンが「泉」として美術館に便器を置いたのは、美術館という制度化された文脈のなかだからこそ成立しました。しかし、私たちの住む街中で、果たして「生身のトイレ」のような図像の運用方法を見ることはできるでしょうか。大袈裟な表現ですが、やはりここにもアートとポップカルチャーを分ける境界がはっきりと存在しているわけです。

ただ、視覚芸術の場合は、美術館や展覧会という場があり、先進国の大都市では現代美術の展示が開催されれば多くの人が訪れます。日本でも東京を中心にして、国内外の現代美術を鑑賞する機会が比較的整っています。一方、無調音楽など前衛的な音楽は、実際に体験できる場がかなり限られており、固定化されたリスナー層以外に広く浸透しづらい。クラシック音楽の権威化やファンコミュニティの閉鎖性もあって、前衛的な試みに興味をもつ人とのコミュニケーションも少ない。そのため、批評もあまり充実していないという状況が続いているのではないでしょうか。

ここで、ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille)の言語批判に目を向けてみる。バタイユは1955年に哲学学院で講演を行い、推論的言語が「世界に付け加えている余計なもの」を抹殺したいと述べました。ただし、そうした抹殺は厳密には不可能とも語っており、言語の使用から完全に逸脱することは難しいことを認めています。

彼は哲学の言葉を「死んだ言葉」と呼び、言語が持つ構造そのものを批判しました。その理由としては、言語の枠内に留まってしまう限りエロティシズムを体験できず、本来的な(アルカイックな)生と矛盾してしまうからだ、と主張します。社会の安定した構造からはみ出すことでこそ得られる感覚があり、それは言語からの離脱と深く関連しているというわけです。

もちろん、バタイユのように言語を激しく批判することは、学問や社会生活のなかでは容易ではないし、実践的にも困難です。しかしこの視点は、私たちが普段何気なく使っている言語――それが図像論でいう言語化の試みであれ、調性音楽という和声理論であれ――が、私たちの世界認識をいかに狭めているかを改めて自覚させてくれるのです。

こうした文脈で、調性に縛られた音楽や、制度化された美術館での展示とは異なるアートに光を当てることは、現代の芸術(とくにポップカルチャー)に新たな地平を切り開く可能性を秘めています。アンビエントやノイズミュージックなど、既存の和声理論の枠外にあるジャンルも、その極端さゆえに敬遠される面はありますが、実は幅広いグラデーションを私たちは作ることがーーけっして「できる」という意味合いではなくーー”できうる”のです。そこから多様な試みが生まれ、作り手が新たな創作領域を開拓し、受け手が未知の感覚を体験する。それを繰り返すことによって、私たちの感性と社会構造のあり方が少しずつ変化するかもしれません。

もちろん、既存のポップカルチャーの巨大な流れに対抗するのは難しい。しかし、より多くの人が体験しやすい形で、かつ分かりやすさに依存しすぎない芸術形態が広まれば、新しい可能性を実感できるでしょう。私が強調したいのは、私たちが既存の言語や構造に支配されていると同時に、それを使いこなしながらも逸脱する余地は常にあるということです。

長くなりましたが、結局のところ、芸術には言語による説明を超える部分が常に含まれているというのは一つの社会的な了解です。一方で、人間は言語や構造の外にはなかなか出られない存在でもある。図像論が示すように、私たちは言語を使って作品を解釈しつつ、言葉では言い表せない要素をも同時に感じ取っている。音楽においても、調性という西洋由来の枠組みを「言語」として共有しながら、その外側へ抜け出そうとする人たちがいて、その試みがまた別軸の芸術的価値を生んでいる。

バタイユの言語批判は過激に聞こえるかもしれないが、そこには「生」やエロティシズムを取り戻すために言語を乗り越える、あるいは離脱する必要性が示唆されています。私たちが言語に頼りきることなく、構造化された世界から微妙にはみ出す瞬間にこそ、芸術の根源的な力を感じることができるのではないでしょうか。

今後も、私たちがあえて既存の枠組みから逸脱する試みを続け、既存の言語と結びつきながらもそこに収まらない創作や批評を行っていくことで、より深い芸術体験が広まっていくことを私は期待しています。結局は、そのような「理性と言語を越える部分」と「理性と言語で捉えられる部分」のあわいを揺れ動きながら、私たちは芸術というものの可能性を探究し続けるのだとも思います。


この文章は、本間の文章を元にChatGPT-o1によって生成されました。

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