【上野くんとの往復書簡】(最終回)|ルフィのような柔軟さがあればどんな時も自己肯定感を取り戻せる
こちらの記事は、上野くんとおこなっている「働く大人の自己肯定感」をテーマにした往復書簡の九通目になります。
これまでのやり取りはこちらから読めます。もし、初めて私たちの書簡を目に留めていただいた方は、ぜひ好きな部分からお読みいただければと思います。
上野くん、こんにちは。
前回の記事で確認しあったように、この往復書簡もこの記事で最終回になります。
9月に上野くんからお返事をいただいてから、すぐに書こうと思っていたのですが、なんやかんやしている間に秋が過ぎて、雪の降り出す季節になってしまいました。
白状しますと、前回のお手紙の冒頭にある「過去イチ」という言葉にうっとりしてしまって、最後のお返事を書き出すのを躊躇っていたのです(笑)。
でも、さすがに年を跨ぐわけにはいかないと思い、こうしてお返事を書いております。よければ最後までお付き合いください。
教育は情報を受け取り続ける営みかもしれない
まず、上野くんからのお手紙でいただいた人間観について。
コンサルタントをされている上野くんが、お仕事で培った経験と知見からくるご意見は大変に刺激的でした。それこそ、上野くんへ過去イチに良いパスを出したと思えました。
「人間はなぜ判断を誤るのか? 」
この問いに対して、「人間は全知全能ではないけれど、その場その場で判断を下して生きていく必要があるから」という答えは、人間の本質に迫るもので、感嘆しながら読ませていただきました。
また、この答えに至る2つの視点。
とりわけ、人間は情報的存在という上野くんの人間観は今まで考えたことがない視点でした。なんとなく実存哲学的な印象を持つのですが、上野くんも意識していたのでしょうか。
今回のテーマからは逸れてしまいそうですが、上野くんが言う「情報的存在」について読み深めていくと、教育とは人間を情報的存在として規定する行為なのかもしれないという仮説が浮かびました。
「赤信号は車が通るから止まろう」
「火に触ったら火傷してまうから手を出しちゃいけないよ」
「おむつ汚れて気持ち悪いね」
こんな風に、親から衣食住や安全・健康を保つ言葉掛けを起点にして、さまざまな情報を投げかけられる(あるいは自分から獲得していく)ことで、人間は情報的な存在になるのかもしれない。そして、この情報の受信や獲得こそが教育なのではないか。
そういう仮説です。
この仮説にそって人間の発達を考えると、昨今のメタヴァースやNFT技術の普及・発展は、近代的な階級制度によって存在していた格差と同様の格差をメタヴァースでも発生させうるのではないかと、少し昏い想像をしてしまいました。
「お前はこの情報にアクセスできないぜ。へっへっへ。」「ここから先に入れるのは○○は人たちだけですので。」的な。
これもまた、全知全能ではない私の今のこの瞬間の判断なので、明日以降に新しい情報を得た自分は別の判断を下すのでしょう。きっと。
「他者から見た自分」を、どのように自分に取り入れていくのか
「人間は情報的存在だ」という視点を、自分なりに自己肯定感と関連づけて考えてみたら、「他者から見た自分」や「相手が期待する自分」など、他者の存在がキーワードとして浮かびました。
・次の人事で昇進の噂がある自分
・プロフに音楽好きと書いたら、クラシック好きの相手とマッチングしてしまい引っ込みがつかなくなった自分
・「なんかすごい人なんですよね!」という、あまりにも尾ひれのついた噂を頼りに自分にアポを取ってきた相手とのコミュニケーション
などなど。
日常生活には、「自分から見た自分」と「他者から見た自分」のズレがありふれていて、それらが自己肯定感にも影響を与えています。
「他者から見た自分」に関する情報をどう取り入れていくのか。これは、上野くんと今後も意見を交わす上でのとっかかりになる気がしています。
実は、四通目・五通目で扱った「分人」やエージェントセルフ(統括する自己)について考えている頃から、「他者から見た自分」という視点をこの往復書簡で扱うかどうか悩んでいました。
この部分について踏み込んで書くと、自分の中で着地点を見いだせない気がしたので、直接扱うことは避けたのですが、働く大人の自己肯定感を考える上では避けられない視点だなぁと改めて感じました。
というのもですね。上野くんは、働く大人の自己肯定感について、「自分というシステムを絶えず更新できる柔軟さを持つ」ことが一番重要だと、前回のお返事で書かれていました。
私もそう思います。
そう思うからこそ、「他者から見た自分」は、自己を更新する柔軟さを促進もするし阻害もする要因だと私は考えます。
ですから、今度また似たようなテーマで上野くんとやり取りすることがあれば、「他者から見た自分」を分人として迎えるかどうか。その判断の機序について話してみたいものです。もちろん、抽象度と因果性の考え方も。
ルフィがすごいのは敵からも学べる柔軟さがあるから
最後に、この柔軟さをどのように身につけていくのかについて私見を述べて、まとめに入らせていただきます。
自分を絶えず更新できる柔軟さをどのように獲得するのか。
結論から言えば、『ONE PIECE』のルフィを真似することだと思っています。私はマンガが好きなのでマンガを引き合いに出すのですが、ルフィってすごいですよ。
何がすごいって、誰からでも学ぶんです。それこそ敵からも学びます。その姿勢が影響したのか、ルフィの仲間であるゾロも自身の最大の敵(ミホーク)に頭を下げて学びを請うシーンが描かれています。
敵から学ぼうとするって、すごいですよね。これほどドラスティックに自分というシステムを更新する行為はないと思いますし、敵から学ぶことを厭わない柔軟さに感服します。
常日頃から、歳を重ねても頑固ジジイにだけはなりたくないと思っている私にとって、自分を絶えず更新するという点においてこれほど適したロールモデルはいません。
ですが、悲しいかな日常生活ではこのようなロールモデルにはなかなか出会えません。特に、私より年上の世代では本当に少ない。ですから、せめて年下の人たちが持つみずみずしい柔軟さをお手本にしています。
そうそう。『ONE PIECE』以降、敵から学ぼうとする主人公を描くマンガが増えたように思います。最近だと『龍と苺』という将棋マンガもそうでした。ジャンプだと、北条時行を描いた『逃げ上手の若君』も敵から学ぼうとする描写があります。
少年マンガの作家たちが敵から学ぼうとする姿勢を描くのは、読者にとってとても良い教訓だと私は思います。
加えて、そのくらいしないと自分を絶えず更新するのは現代社会では難しいという成長観が、作家たちの間で少しずつ共有されているのではと私は想像します。
あまりマンガを読まない上野くんに、マンガの話ばかりしてもつまらないですかね。この辺りで打ち止めにさせてもらいますね。
終わりに(上野くんへ)
今年の初めに、私が「往復書簡がしたい」とSNSに投げかけたところ、一番に反応をくれたのが上野くんでした。
おかげでこの往復書簡がスタートできました。当初は2〜3ヶ月で終わると思っていましたが、全然そんなことなかったですね(笑)。約一年、ゆっくりお付き合いいただいて感謝しております。
この往復書簡。当初、私が思っていたよりも友人知人から反応があって驚きました。「読んだよ」「面白いね!」「途中で挫折した笑」など、さまざまでしたが、上野くんの方ではどうだったんでしょう。
個人的には、自己肯定感についてゆっくり考える機会を持つという私の当初の目的が達成されたので、とても嬉しく思っています。また、その相手が上野くんだったことも、自分にとっては贅沢な機会でした。
お返事が来るたびに感心させられるのですが、上野くんは本当に自分の意図を汲んでくれるのが上手ですね。
毎回、「そうなんです!そういうことが言いたかったんです。まとめてくれてありがとうございます!」と思っていました笑。
コロナ禍で気軽に友人と会うことが難しくなった昨今において、会わなくても往復書簡を通して上野くんとじっくり対話ができたことを本当に感謝しています。ありがとうございました。またやろうね。
終わりに(二人のやり取りを読んでくださったあなたへ)
どこの馬の骨とも分からない私たち二人の往復書簡を読んでくださって、誠にありがとうございました。
この往復書簡は、人によっては鼻持ちならないものだったかもしれません。
専門家の方々にとっては、「素人が何を偉そうに」と思われるでしょうし、たまたま目に留めてくださった方々にとっては「なんか難しいなぁ」と敬遠されたかもしれません。
そんな可能性もある中で、九通のお手紙のうち一通でも最後まで読んでくださった方々、二人のやりとりを追いかけてくださった方々には頭が下がります。ありがとうございます。
二人のやりとりが、何かしら皆様にとって学びがあったなら幸いです。
そして、往復書簡を機に皆様が自己肯定感について見つめ直す機会になったなら、私にとってはこれほど嬉しいことはございません。
私の方は引き続きいろんな方々と往復書簡を通して、1つのテーマについてじっくり考えていければと思っています。よければこちらの記事も合わせてお読みください。
友人の上野くんは、論理的思考力を中心に個人ブログでも発信されています。こちらも大変面白く、読み応えのあるものばかりです!ぜひ。
それでは、また。
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