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【上野くんと往復書簡】(三通目)|根っことしての自己肯定感から、スキルとしての自己肯定感へ


前回の上野くんからのお手紙はこちらから読めます。


上野くん、お返事ありがとうございます。大変に興味深く、何度も何度も読み返してしまいました。ヘッダー画像のチョイスも「さすがだなぁ」と唸りました。


上野くんからのお返事がくるまでの間、『お手紙』のがまくんみたいな気持ちでした。上野くんは『お手紙』知っていますか。『ふたりはともだち』という絵本に収録されているお話の1つで、東京書籍が小2の国語の教科書に採用していました。ツッコミどころも多いのですが、微笑ましいお話です。


さて、早速ですが本題に入っていきましょうか。

まずは論点の整理、ありがとうございます。上野くんならきっと、ぼくのとっ散らかった話も上手に整理してくれるだろうと思っていました。一気に話の見通しが立ちましたね。とってもありがたいです。


今回扱いたいと思った論点
【論点①】「自己肯定感」とは何か?
【論点②】「自己肯定感を高めよう」とみんなが言うのはなぜなのか?
【論点③】「働く大人」にとって自己肯定感が大切なのはなぜなのか?
(上野くんからのお手紙から)



いただいた論点に沿って、今回は「自己肯定感」とは何かについて自分なりの考えを述べつつ、【論点②】にパスできればと思っています。

やはり二人で自己肯定感は何かについて意見を交わしておかないと、先に進みにくいですよね。白状しますけど、一通目のお手紙を書いているときは、このことについてすっ飛ばしてしまおうかとも思っていました(笑)。

というのも、上野くんもお気づきのように、自己肯定感は人によって指し示す意味が微妙に違っています。wikipediaもこう言っています。

自己肯定感については心理学の領域で継続的に高い注目を浴びている概念であるが、その定義や類似の他概念との弁別性などについて、検討の必要性が残っている[4]。


ですから、自己肯定感について二人の意見をすり合わせるのは、なかなかの大仕事になるぞと一通目を書いている時点で思ったんです。なので、自己肯定感が何かを明言せずに、お互いが持っているニュアンスをベースに突っ切ってやろうと考えていました、すいません(笑)。


でも、そんなぼくに上野くんはとてもナイスなパスをくれました。

自己肯定感(self-affirmation)- 現在と未来の自分に対する包括的な安心感
├ 自尊心(self-esteem)- 自分自身の状態に対する肯定的な認識
└ 自己効力感(self-efficacy)- 自分が課題を遂行できることに対する肯定的な認識
「自己肯定感=自尊心+自己効力感」
「今の自分はいい感じだし(自尊心)、これからもうまくやっていける(自己効力感)から安心(自己肯定感)」
「私はいま十分にいい感じだし、今後どんなことがあっても乗り越えていける。だからいま幸せだし、安心して暮らしている」
(上野くんのお手紙から)


私はいま十分にいい感じだし、今後どんなことがあっても乗り越えていける。だからいま幸せだし、安心して暮らしている。


自己肯定感を指し示すにあたって、すごくいい言葉ですし、ぼくの理解も言い換えればこういうことですから、これを共通の理解として今後の論点に入っていけたらと思っています。


ただ、その前に自分がこのような理解をするに至った経緯をお話しします。


ぼくが自己肯定感について、PTAや教育委員会の講演で説明するときは、いろんな自分たちを全部ハグすることだと言っています。


「頑張り屋の自分も、みっともない自分も、食いしん坊の自分も、自分の中にはいろんな自分がいるじゃないですか。その全ての自分たちをよしよしとハグする感覚です」って。

あるいは、いろんな自分たちを漏れなく自分を動かすフルメンバーとして扱うことですよとか、全ての自分たちは自分という船を動かすクルーだから一人もかけちゃいけないんですよ、って言うときもあります。

言い方はケースバイケースですけれど、共通しているのは自分の中にある全ての自分たちを肯定することです。


この考えは、全て高垣忠一郎先生の思想が根っこにあります。

高垣先生について少しだけ説明しますね。高垣先生は、主に登校拒否や不登校の子ども達のカウンセリングをされています。登校拒否や不登校という言葉もなかった1970年代からです。すごいよね。

wikipediaでは、1994年に高垣先生が自己肯定感を提唱したと書かれています。でもこれは少し違っていて、高垣先生は1970年代には、全ての自分たちを肯定することが自己肯定感だという考えに至っていた。あるいは、1970年代にアメリカで研究されていたセルフエスティーム(自尊心)を、高垣先生は全ての自分たちを肯定することと解釈していたのだと思っています。


余談ですが、グーグルスカラーで調べた範囲だと、1976年の論文にはすでに自己肯定感という言葉が出ていました。(小出れい子「青年期後期における身体像境界の意味について」)

この論文に高垣先生の名前は出てきませんが、高垣先生が大学院のゼミなどで自己肯定感を提唱し始めた頃に、その影響を受けて小出さんは論文で自己肯定感という言葉を使ったのではないかと予想しています。(実際は知りませんけれど…)


では、どうして高垣先生が、自己肯定感は全ての自分たちを肯定することという考えに至ったのか。それはカウンセラーとしての現場経験が大きいと思います。

本人から直接伺ったので間違いないんですが、高垣先生は1970年代に河合隼雄先生の助手をしていました。ご存知の通り、河合隼雄先生は臨床心理の第一人者で、日本におけるカウンセリングを牽引した方です。(箱庭療法の導入や、アイデンティティについて研究した人)

これも想像ですけれど、今では珍しくないカウンセリングも当時は極めて最先端で、カウンセリングの現場は少なかったと思います。にも関わらず、1970年代から高垣先生がカウンセラーとして、さまざまな子ども達と出会えたのは、河合先生の助手だったからー当時は最先端の研究をしていたからーじゃないでしょうか。勝手な予想ですけど。


高垣先生は自身が講演されるときに、カウンセラーとして出会った子ども達のエピソードをよくお話しされます。

「こんな自分はダメなんです」
「みんな頑張ってるのに頑張れない自分は良くないと思っていて…」

などなど。

自分の一面を否定し、苦しんでいる子ども達とたくさん出会ってきたそうです。彼らとのカウンセリングを通して、「自己肯定感は自分の中にある全ての自分たちを肯定すること」という考えに至ったんでしょう。


全ての自分たちを肯定するなんていうと、「甘やかしてるだけじゃないの?」なんて言われそうですけど、そんなことはないです。人には両価性があります。食べたいし、痩せたい。頑張りたいし、休みもしたい。どっちもある。どちらも認めるので甘やかすことにはなりません。


ここまで、ぼくの自己肯定感の理解のベースにある高垣先生について、想像を交えながら説明したんですけれど、なんとなく伝わりました?大丈夫かなぁ。


そろそろ最後になるんですけど、高垣先生は昨今の自己肯定感の使われ方を問題視しています。自己肯定感は自分という存在を支える根っこのようなものなのに、今ではスキルや能力の1つとして捉えている人が多いと。


このあたりに、

【論点②】「自己肯定感を高めよう」とみんなが言うのはなぜなのか?

この論点を考えるヒントがある気がしています。


確かに「社会人 自己肯定感」で検索すると、

・自己肯定感を高める7つの習慣
・自己肯定感が低い原因と、高めるための○つの方法

みたいな記事が結構あって、高垣先生が言わんとすることもなんとなくわかります。こういう記事は、自己肯定感をコミュニケーション能力や、英語力に中身を変えても構造が変わらないなぁという印象を持ってしまいます。


これまた勝手な予想なんですけど、ビジネスシーンに自己肯定感が輸入されるときに、どこかでスキルや能力の1つとして矮小化されてしまったんじゃないかなと思っています。

そして、スキルや能力の1つになってしまったから、自己肯定感が低いなら自分で高めてね、という自己責任論に回収されてしまい、例に挙げた記事が頻出してしまったのではないかと。


「自己肯定感を高めよう」とみんなが言うのはなぜなのか?

自分の考えとしては、自己肯定感がスキルや能力の1つとして矮小化されてしまったので、働く大人の危機感を煽る道具として使えるようになってしまったからじゃないでしょうか。

「自己肯定感低いの? やば!この本を読んだ方がいいよ」
「このチェックリストに3つ以上当てはまる人は要注意。自己肯定感が低い人の6つ特徴。さあ、いますぐ自己肯定感を高めたいならこの動画を見ようね!」

みたいなね。

上野くんは、【論点②】についてどのように考えていますか?


暖かい日も増え、梅の花が咲いているのを見かけるようになりました。最近は自然を見ながらぼーっとすることがお気に入りです。そろそろ緊急事態宣言も解除されるといいのになぁ。そしたら他府県にもお出かけしやすいんですけど。

お返事、ゆっくりお待ちしております。






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