HoundDog 80年代最強のLIVE バンド part.2
こんにちは、Hideです🎵
前回に引き続きHoundDogについて続編をお送りしていきます。
売れない彼らにクビが迫る。ハウンドドッグの運命やいかに⭐️
起死回生の一発で逆転となるか〜
Hound Dog大ブレイクのきっかけは、伝説のスタジアムライブとカップヌードルCM LIVEで掴み取った奇跡
プロのバンドとして、もう崖っぷちのところまで来ていたハウンドドッグが、起死回生を狙ってリリースしたのが、誰もが知っている「ff フォルティシモ」でした。
今や国民的応援歌となった「ff」ですが〜大ヒットに至る要因はと言うと
当時テレビで人気だったカップヌードルのCMソングに起用され、この曲がCパリダカールラリーの映像のイメージにハマって大ヒットしたのです。
CMのキャッチコピーは
”負けるもんか! 負けるもんか! ハングリアン民族 カップヌードル”
でした。
長年芸能界で売れなくて、苦労してきた不運な彼らが、なんとか這い上がろうと、拳を固めて頑張っているイメージがこの曲にはあります。
歌の中で自分達を鼓舞していた「ff」はまさに、夢を追い続ける人への応援歌となりました。
イントロのシンセがファンファーレの様な感じが、力が込み上げてきますよね〜
カップヌードルは、夢を追う人々が、貧しさの中カップヌードルを食べて懸命に頑張るといったイメージのCMでしたね。
彼らがffでヒットを飛ばす少し前の84〜85年、バンドへのテコ入れとして、デビュー当時からのメンバーを三人チェンジするという、それまでの彼らには無かった大きな決断を下した時期でもありました。
*メンバーチェンジ直後に発売された「BAD BOY BLUES」新メンバー西山毅のライトハンド奏法のギターソロが格好良い🎸
経緯として、デビューから地元仙台を拠点として活動してきた彼らであったが、4年目の83年に仙台の事務所から東京の事務所に移籍しヒット曲もない中、初の日本武道館公演を成功させた。
が、その後もレコードは売れぬまま、6年目を迎えていた。
「ff」のブレイク前にメンバーチェンジ直後に12インチシングル「Knock Me Tonight/Bad Boy Blues」(’85.7.1)をリリース、夏に予定されていたスタジアムツアーに備えていた。
そして満を持して翌月の8月25日にシングル「ff フォルティシモ」とアルバム「Spirits」が同時発売となるのだが…
1985年は、新生ハウンドドッグとしてスタジアムLIVEの予定も組まれており、業界関係者等から戦力外通告の話を知っていたのか、スタジアムツアーでハウンドドッグが燃え尽きて解散…なんて、心ない噂も出るほどバンドは危機的状況であった。
そんな崖っぷちの彼らが「ffフォルティシモ」の発売の2週間前に行ったスタジアムLiveの一発目だった西武球場公演が”伝説のLIVE”として、ヒットのきっかけとなった。
「Typhoon Party tour’85」というタイトルだったが、1985年8月10日埼玉県所沢市にある西武球場は夕方から大雨になってしまった。
ライブ当日、全国から集まった熱心なドッグファン1万5千人は崖っぷちの彼らの再スタートライブを応援しに来たのだ。
3万人収容の西武球場に半分の人数しか入らなかった。
彼らのその時の実力からしたら、それでも多く集められた方だった。
私もこのコンサートのチケットは手配していたが、残念なことにライブ当日仕事で行けなかった。
約40年経った今でもあの”伝説のライブ”に参戦できなかったことは後悔している。
崖っぷちから新メンバーで新たなスタートを、必死の覚悟で臨んだ西武球場での初のワンマンライブだったが、オープニング曲を演奏すると同時に大粒の雨がステージへと降り注いだ。
ツアータイトルと同じ、typhoon partyになってしまったのである。
電気楽器を使用するロックバンドにとって、野外ライブでの雨は生命の危機にもかかわる出来事である。
当時はまだライブでの突発的な天候の変化に適応する対策が出来ていなかった。
現在では屋外公演ではステージ上に透明の屋根がかけられたりして、演奏する人が雨に濡れないような対策が講じられている。
昭和時代だった昔のライブなので、ステージ上に雨を凌ぐ屋根なんて当然の如く無く、楽器類は全てずぶ濡れになりシンセサイザー等コンピューター楽器は全滅、電気系統にも支障をきたし度々PAスピーカーから音が出なくなったりとトラブルも相次いだ。
そんな中、もう後のないハウンドドッグは、火事場のクソ力を発揮して最後まで演奏し切ったのである。
*’85年8月10日西武球場でのLIVE🎵より
本編最後の「ラストヒーロー」で演出用花火が暴発し、康平が負傷。
目の上にバンダナを巻き、本編ラスト曲「アフターコンサート」を歌う。
このツアーを絶対無駄にはしないという康平の決意から歌われた曲だ。
ライブ本編の最後に大友康平が、演出用の花火の暴発により、目の上を負傷してしまうアクシデントに見舞われたが、一瞬の差で大惨事には至らず目の上に絆創膏を貼った大友がアンコールまで歌い切り、無事ハウンドドッグの新たなスタートのLIVEを大成功で終える事が出来たのである。
ボーカルの大友康平が土砂降りの雨の中ステージを駆け回り、それまでで最高のパフォーマンスを観せた。
人間土壇場になると、もの凄いパワーを発揮できるのだな〜と感じさせてくれたライブだった。
後日発売されたライブビデオ「Cats&Dogs」で彼らの素晴らしいパフォーマンスを確認できた。
その時、チケットがありながら行けなかった事をまたまた悔やんだのである。
このライブでステージ上から大友がファンに対して雨の影響で楽器の音が聴衆に聴こえなくなる中
「今日は俺たちの新たな出発点なのだから〜少々のトラブルには負けちゃいられないんだ!」
「もうすぐ30歳になっちまうが〜俺はロックンロールをやるか、くたばるしかないんだ〜」
「今日のライブは自慢出来るんだ 自分には政治的な力も、汚い力も無いけど、来年もまたここでコンサートするぞ!」
と来年もプロとして活動出来るか否かかも定かではなかった状況で、ファンに向かって公言した大友康平の中では、ヒット曲が無くても心強い熱いファンがいるならば、俺たちは輝けるしロックし続けられる、と確信した瞬間だった。
そんな思いから生まれた名言だった。
そんな境地に至り、自信を超えた音楽を演る者として確信を掴んだライブだったのではないかと感じている。
このライブは”誓いの日”とも言われているのは、このMCのせいでもある。
その後、このライブは”伝説のLIVE”と語り継がれ、フォルティシモのヒットのきっかけとなったのは言うまでも無い。
カップヌードルのCMも人気で、「ff」が収録されたアルバム「Spirits!」も大ヒット、崖っぷちで後が無かったハウンドドッグが一躍日本ロック界でスターダムにのし上がった瞬間だった。
80年代日本のロックではBOOWYやブルーハーツ、尾崎豊等…ハウンドドッグの後輩たちが人気を得て、年下のアーティスト達に次々と追い越されていく中、挫折感と焦燥感に苛まれながら掴んだ栄光だった。
その後の彼らの活躍は皆さんが知っての通りだ。
*’93年2月27日リリース25枚目シングル『日はまた昇る〜THE SUN ALSO RISES〜』ハウンドドッグ本人達もCMに出演した
HoundDogの成功の要因と、日本ロック界における実績と功績
伝説のライブから大ブレイクを果たした彼らではあったが、その要因はというと…
やはりデビュー6年目を迎えて崖っぷちに立った事で、バンドへのテコ入れとして行ったメンバーーチェンジが大きかった。
デビュー当時からのベーシストであった海藤節生の脱退に伴い、元ツイストの鮫島秀樹が後任として正式メンバーとなり、ギターリストだった髙橋良秀から若き天才西山毅に、ドラムで楽曲制作を担当していた藤村一清から、パワフル橋本章司へと替わり、演奏面では格段にレベルアップした事がブレイクの大きな要因だ。
ベーシストの鮫島はツイストでの実績と経験もあり、プロのミュージシャンとしての心構えを以前からのメンバーにレクチャーしたという。
*ONLY LOVE 1992年広島ピースコンサートより オリコン最高チャート3位を記録 ハウンドドッグ全盛期の頃
メンバーの紹介で連れてきたドラムの橋本もパワフルで、元々ドラマーだった大友がそのドラミングを気に入った事が大きかったし、ギターの西山は他のメンバーよりも若く、天才的な演奏技術を持っていた、”横浜一速い男”と呼ばれギターの速弾きと卓越した演奏技術は見事だった。
それまでのハウンドドッグにはなかった、ギターソロを取り入れ、当時アメリカのハードロックバンドのギタリストヴァンヘイレンが弾いていた、ライトハンド奏法を日本のロックバンドで初めて披露したギタリストでもあった。
この西山の加入がハウンドドッグサウンドに大きく影響を及ぼしたことはドッグファンなら認めるところだ。
大友好みのパワフルなドラムで勢いをつけ、チャーを思わせる若き天才ギタリスト西山が加入したことで、力をつけたハウンドドッグに必要なものは、ヒット曲だけだったので、バンドの音楽的向上がヒット曲に繋がったことが成功の要因になったことは、デビューから追いかけてきた私の様なファンならよく理解出来る。
あとは、80年代の中盤に差し掛かり、日本でバンドブームが流行り始め、今まで全国ツアーで下地を築いてきたハウンドドッグにも陽が当たり始めたということもあるだろう。
どちらにしろ、崖っぷちでの伝説のライブがきっかけとなり「ff」がカップヌードルのCMでヒットした事が一番の要因であることは皆さんが周知するところですよね。
*’92年2月9日リリース「BRIDGE〜あの橋をわたるとき」 夢の島FINAL 99Liveより アサヒスーパードライCMシング HD最大のヒット曲となった
フォルティシモのヒットの後も、「Bridge〜あの橋を渡る時」等数多くのヒット曲を世に送り出し、アサヒビールのCM曲やドラマや映画主題歌など多くの楽曲を手がけていくことになる。
ブレイク後も彼らの基本であるライブ活動にも一層力を入れ、全国くまなく巡業していた。
もちろん大衆の支持を得た彼らが訪れるライブ会場はどこも超満員だった。
全国ツアーでファンを獲得していくといった矢沢永吉氏等多くのロックミュージシャンに見られるアナログな活動でロックをメジャーにしたスタイルを確立したハウンドドッグの功績は大きい。
東京ドームがオープンして最初に公演したロックアーティストもハウンドドッグである。
*「トラブル・メーカー 」1988年 東京ドーム“BIG EGG” LIVEより 日本のロックバンドとして初のドーム公演を行った 1982年発売のアルバム収録曲
当時でライブ本数や観客動員数はNo.1であった。
日本武道館7Daysや10Days +1など、ロックの聖地武道館公演の記録も塗り替えていった。
スターバンドとなってもライブツアーが主戦場という姿勢は一環として崩さなかった。
地道なライブ活動と”愛と勇気”を歌う庶民派のハウンドドッグはファンからも愛されたバンドの一つであった。
ファンにとっては残念だったが2005年の解散騒動でメンバーがバラバラになり、いくつかの訴訟にも及んだ事だ。
現在では大友康平一人となったが、裁判で決まった通り、メンバー全員の同意があれば、メンバーの誰かが活動する際にハウンドドッグを名乗れる(YouTubeでキーボードで作曲担当のの箕輪単志氏が語っている)と決定事項に従い、大友がライブをする時はハウンドドッグを名乗り、ドッグの楽曲を歌っている。
ツアーも行っており仙台でもライブの予定が組まれている。
私は、大友康平さんが月日を経てもハウンドドッグの曲を歌っているのは嬉しいことだが、出来れば以前の6人のメンバーでライブをして欲しいと願っている。
バンドってボーカルだけが変わらなければ良いというものではないと思うし、聴いているファンからしたら演奏者が変わると音やイメージだって変わる、やはりメンバー全員で作り上げてきた音楽を聴きたいと願うのがファン心理だ。
それでも80年代〜90年代にかけてハウンドドッグが日本のロック界に残した功績は大きい。
我々東北の地においても、東北各地での夏フェスの開催やプロデュース等々、彼らが中心となったイベント開催されたものも、現在でも続いている。
”ロック不毛の地”東北にロックを浸透させた功績は大きいのだ。
あとがき
前編と後編で長い記事になりましたが、読んでいただきありがとうございました。
ハウンドドッグのリーダー兼ボーカルであった大友康平さんは現在では、テレビドラマ等で俳優として活躍している事が多い。
80年代〜90年代にかけて活躍したHoundDogだったが、私の青春時代とリンクしていて、あの頃の彼らの曲を聴くと当時の思い出が蘇ってくる。
*1985年8月 西武球場”伝説のLive”から 名曲「ラストシーン」当時21歳だった私の青春の1ページになった 当時の思い出が蘇る一曲
永ちゃんと同じくらい、もう彼らの音楽無くして自分の青春と音楽活動は語れないだろう。
永ちゃんは私に夢を与えてくれたが、彼らHoundDogは、夢を諦めないという勇気を与えてくれたバンドだった。
いつまでも彼らのことは忘れないだろう、これからも…
彼らのみたいに、歳をとっても”Rock’nRoll🎶”と叫び続けていきたい♪