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1980年代 杜の都のディスコ状況
こんにちは、Hideです♪( ´θ`)
前に2回の連載で投稿した…”80年代に地元のディスコで〜”の記事を読んだ地元の友人から懐かしいと少しばかりの(笑)反響がありましたので、特別編的に、おまけという形で、ディスコ話をお送りします。
![](https://assets.st-note.com/img/1687951815158-H3qdGduKDS.jpg)
80年代は、杜の都にもたくさんのディスコがありました
70年代後半から、杜の都にもディスコが開店し始めました。
最盛期には中心部以外の副都心的な場所にもあったくらいです。
すぐ無くなりましたが…
私の同年代の友人たちも、高校時代から踊りに行っていましたね。
私の記事を見て「あの時代が〜懐かしいなぁ〜」との声がありました。
当時はディスコブームで若者の多くは、曲を聴いて踊りに行くのが流行でした。
有名だった店は、東北一の歓楽街国分町というところにあった、”ZiZiQUE”というディスコでTV CMもやっていました。
CFミュージックは決まってノーランズでしたね。私の記憶では「夏は16歳」かなんかでしたね。
このグループ姉妹なのですが、リードボーカルの二女の歌い方が、エキサイティングなんですよね(^。^)
The Nolans - Chemistry (1982)邦題:夏は16歳 動画どうぞ🎵
他にはレッドパロットというファッションビルの地下にあった店がありました。ここは男女同伴でなければ入場出来ません。
あと若年層に人気だったグリーンハウス、ZiZiQUEは年齢チェックや髪型(リーゼントは禁止)等、入場には厳しいルールがあったので、グリーンハウスに流れたヤンキー系のボーイズが言ってましたね。
私は、当時はZiZiQUEしか行ったことなく、社会人になってから、入り口で女子二人組にお願いして一緒に入場してもらいました。
ZiZiQUEは仙台のディスコの定番中の定番のお店でした〜のちに”マハラジャ”と店名を変えて営業していた人気店でした。
私が20代中盤になっても、踊れるディスコの店が何店舗か残っていましたけど〜
やはり全盛期は70年代後半〜80年代中盤ぐらいでしたね。
バブル期終盤の1991年〜、東京では”ジュリアナ東京”がオープンして、派手で際どいファッションをした”お立ち台GAL”が出現して、高い位置でジュリ扇🪭という扇子を振りながら踊っていました。
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今でもバブル時代を振り返る映像には必ずと言って良いほど出てきます。
店舗の数としては、私が高校時代が一番多かったのかな〜、自衛隊の駐屯地の最寄り駅前にもあったんですよ。
あの時代を振り返ると、ディスコブーム一色といった感じでしたね。
マジで懐かしいですよ〜
![](https://assets.st-note.com/img/1687951884826-HhDIvJteDd.png)
ディスコは、若者の出会いの場❤️でもあった
当時のディスコでは、踊れるアップテンポの曲の合間や閉店前などに、”チークタイム”と呼ばれ、スローナンバーが流れ、男女がくっついて踊るダンスタイムがあったのです。
私は、残念ながらチークの経験はありませんが〜(笑)
若者が流行のディスコに集まれば、自然と出会いも生まれます。
友人のナンパ師は、毎週末ディスコでナンパに励んでいました(笑)
その時は上手くいっても、長続きするような付き合いにまでは発展していませんでしたね。
”One Night Love”ってやつですかね〜(笑)
私も何回かナンパに成功はしましたが、その時に一緒に楽しく踊っただけで、その後飲みに行ったりとか、連絡先交換までにはなりませんでしたね〜
知り合いの中には、ディスコで知り合い、そのまま結婚までした人もいました。
昭和の若者の社交場だったのですね。
PCも携帯電話なんてない時代、出会いは実際どこかで出会わなければ、何も始まらなかったわけです。
まだまだアナログな昭和→平成だったのですよ!
こちらは、ジジックの跡地に入ったディスコ仙台マハラジャの動画です。
![](https://assets.st-note.com/img/1687952885704-dYJZLMz1tI.jpg)
ディスコミュージックは、たの音楽ジャンルにも影響を与えた
79年にYMOがテクノポップでデビューしてから、ピコピコサウンドと呼ばれるシンセサイザーを酷使したコンピュータミュージックが、世の中を折檻して他のジャンルにまでシンセサイザーを普及させましたが、このディスコミュージックも同じく、低音の効いた16ビートサウンドは歌謡曲やロックにまで大きく影響を及ぼしましたね。
もはやディスコって昭和の文化みたいなものですね。
今に比べ、多種多様な遊びはそれほどありませんでしたからね。
情報だって、現代の様に手元で全ての情報を得られる時代ではなかったのです。
ポパイやホットドッグといった情報雑誌を読んで、最先端の情報を得ていました。
そりゃ〜東京より地方は、情報が送れるのは当たり前でしたね。
東北新幹線にしても、開通したのは1982年6月で、私は高校3年生でした。
それも段階的で、最初は大宮⇔盛岡間で上野駅まで行ったのが1985年だったのですよ〜
東北は田舎と言われたのも無理ないですね〜
当時ディスコが流行り出した頃は、仙台市も政令指定都市になる以前で、人口も70万人しかいなかったのに対して、数多くのディスコが存在したことを見れば、世の中いかにディスコブームだったのかがわかるでしょう。
ジジック、グリーンハウス、レッドパロット、セブンデイズ、ラメール、鹿鳴館他…
私が認識しているだけでも、70万都市の仙台でさえもこれだけあったのです。
実際は紹介した数の倍くらいはあったはず。
そんなディスコ全盛の時代でしたね。
昭和終盤、明るく煌めいていたように見えた80年代でしたね。
ディスコは80年代を象徴する文化でした💃