伝説のロッカー三十三回忌 尾崎豊の魂は歌い継がれている
こんにちはHideです♬
今日4月25日は、尾崎豊さんが1992年に逝去してから、31回目の命日です。
仏教の世界では、亡くなった年を一と数えるので、三十三回忌という事になります。
三十三回忌で法要は終了になります。
早いもので、あの日からもう31年経つのですね。
当時、尾崎が死んだという報道にびっくりしたことを憶えています。
今回は、そんな尾崎豊氏にまつわるお話をしていきたいと思います。
大人や社会への反逆の象徴
教師や大人との対立、停学、高校中退、その後レコードデビュー。
当時の少年少女たちの気持ちを、若者の代弁者として多くのオーディエンスから指示された尾崎豊氏は、ラジオ番組は持っていましたが、テレビには出ないし、ライブとレコードだけの活動にもかかわらず、注目度は凄いものでしたよ。
尾崎を初めて聴いたのは、私が19歳の時で、バイト先のレコード会社のオフィスでの事でした。
尾崎が「15の夜」デビューして3か月後くらいで、ちょうど二枚目のシングル「十七歳の地図」が発売された時期でした。
まだ無名の新人で周りにも知る人はいませんでした。
”盗んだバイクで走りだす~”や”夜の校舎 窓ガラス壊してまわった”なんてリアルな歌詞は衝撃でした。
尾崎の歌が多くの中高生たちに聞かれていた時代は、まだ少年少女たちに熱いものを感じられました。
理不尽な大人への反抗の象徴として、当時の中高生達の気持ちを代弁して、あっという間に時の人となりました。
彼は間違いなく昭和の終盤に現われたオピニオンリーダーでしたね。
天賦の才能
尾崎は、厳格な自衛官の父と看護師の母を持ち、五歳歳上の成績優秀な兄のいる普通の家庭に育ちました。
父から教わった剣道を得意として礼儀正しく、石川啄木などを愛読する少年でした。
青山学院大付属高校に入学するほどでしたので学校の成績は良かったようです。
厳しいお父さんから兄と比べられた劣等感があったのでしょうね。
中学生の頃から作詞作曲をして学校の行事で歌っていたようです。
私も同年代ですが、自分で曲を作るなんて、やりたい気持ちはあっても、別世界の事でしたよ。
詩の世界も大人っぽくて私の発想を遥かに超える物でした。
天賦の才能とは、こういう人のことを言うんだなというのが、最初に感じた尾崎の印象でした。
40歳近くになってから、同じオーディションを受けていた事を知りましたが、別の場所では生きていましたが、同じ時代を生きてきたんだなと…改めて感じましたね。
彼とは比べ物にはなりませんが、私の中では今でもライバルのような存在ですね。
楽曲も良いし、歌唱力もあり、ルックスも美少年でした。
凄い新人と音楽関係者やアーティストの間で話題になっていました。
十代が感じている自由への思いを、命を削るように表現する歌は、聴いている者の心に深く響いてきましたね。
同年代で自分が圧倒的に才能があると、勝手に思っていたHide少年にとっては、衝撃的な出会いでしたね。
10代のカリスマの苦悩
18歳でデビューして、20歳になる前に3枚のアルバムを制作して、カリスマ的スターになった尾崎は、次第に何を歌えばよいのかわからなくなり、曲が作れなくなっていったそうです。
自分の感じたことを曲して歌っていただけなのに、ティーンネイジャーからの圧倒的支持を得たことで、いつしか自らオーディエンスを導かなければならないという義務感みたいなプレッシャーに押し潰されそうになっていったのでしょうね。
若過ぎて世の中の事もわからないうちに、評価され期待されてしまうと人間逆に辛くなるのかなと今は感じています。
その後、ニューヨークへ単身渡米して、曲作りのプレッシャーから覚せい剤に手を染めてしまい表舞台から姿を消してしまいます。
世間から尾崎はもう終わったと言われていました。
ドラッグからの復活 そして…
1988年に1月に覚せい剤取り締まり法違反で逮捕されてから、半年後、拘置所内で作ったというシングル「太陽の破片」を発売。
発売日に、最初で最後のテレビ出演「夜のヒットスタジオ」は私もリアルタイムで見ていました。
尾崎独特のシャウトに、色々な思いがあったのだなと感じましたね。
その年9月アルバム「街路樹」を発売し、オープンしたばかりの東京ドームで一夜限りの復活公演「LIVE CORE」を成功させました。
もう終わったと思われたが、ファンは尾崎の復活を待っていたのですね。
その二年後の1990年に再起を掛けて制作したアルバム「BIERTH 誕生」が、オリコン初登場1位に輝き、翌1991年に行われた復活のBIRTHツアーも大成功しました。
初の武道館公演を目の前にした、92年4月25日不慮の死を遂げてしまいます。
葬儀が行われた護国寺には4万人のファンが列を作りました。
私も尾崎の死を報道で知った時には、びっくりしましたが、どこかであ~この時がきたのか、という思いもありましたね。
あまりにも、突き詰めた思いが曲から感じられたので、どうしてここまで考えてしまうのか…と。
現在も死因については、色々な説がありますが、結局真相は謎のままですよね。
有名女優との不倫や、最愛の母を亡くしたショックとか様々言われてはいますが、今となってはわかりませんよね。
未だに尾崎を愛するファンが多くいる事も事実で、生前の未公開映像などが映画になったりしています。
尾崎が高校生の頃、夕日を見ながら曲を作っていたという、渋谷のクロスタワーには、記念碑もあり多くのファンが集まって尾崎を忍んでいます。
私も一度行ってきましたが、大勢のファンが集まっていました。
時間が経っても尾崎は愛されているんだなと改めて彼の残した物の凄さを感じましたね。
この前テレビで、カラオケでもっとも歌われた曲に「I LOVE YOU」が一位に選ばれていました。
うちの息子もカラオケで「僕が僕であるために」をよく歌うそうです。時を経ても、音楽は引き継がれていくのですね。
私はもっぱら「ダンスホール」と「シェリー」が好きで歌います。
もう30年以上経っているのに、未だに多くの人に歌われているなんて、凄いことだな~と改めて尾崎の残したものの大きさを感じましたね。
尾崎が亡くなってから生まれた若者が、ストリートで弾き語りで尾崎を歌っているのを、YouTubeでも発信されているくらいです。
尾崎の死から今日で31年経ちますが、これからも彼の歌を聴いて、歌って、ライバルとして思う気持ちは変わらないと思います。
どんなに苦しくても自分の信じたものに突き進む事を叫び続けた尾崎の思いに合掌。