愛の対象を見つけるということ

今日は朝10時くらいに一度起きた

珍しく母親から起こされる

なんでも、親戚の叔母が体調不良で一緒に病院に行くという

そこで家事のあれこれをやっておいてくれという依頼だった

この叔母、不整脈という心臓の病気があるのだが、医者の言うことを聞かず、勝手に薬をやめたり、運動しろと言われているが運動もせずに菓子パンを食っていたりと好き勝手やっている

そして好き勝手やっているため、体調をよく崩しているという始末である

この叔母のことは全然嫌いではない

ただ「あぁ、そうだろうなぁ」と思う

他人に対して、あまり心を開いていないといか、全部自分で抱え込む節がある

医者の言うことより、自分の感覚を信じている

母親は悩んでいる様子だったので「まぁ、失敗しながら本人が気づくしかないから。こっちも力抜いて対応すればいいよ。それで体調が悪化しても、本人のやりたいようにやってるからしょうがない」

と言っておいた

何度も言うがこの叔母は嫌いではない。というか、自分に似たところがあるし、お互いそう思っているからか、話は合う

まぁしかし、やはり孤立してしまうのは良くない

自分で自分の治療方針を決めるのは別に自由だ

しかし、負のループに入ってしまう危険には敏感でなければならない

一度そのループに入れば一人では抜け出せない

周りに人がいなくなってしまってからでは遅い

治療は治療者と患者の共同作業

他人に対する信頼が必要になることの方が多い

叔母は一人でなんとかしたいのだろう

だがそれができない

ある種の傲慢さが心の何処かにあるのかもしれない。あるいは他人に対する恐怖だとか不信感だとか

これは自戒だ

人のふり見て我がふり直せ

そんな感じの朝を迎え、昼は動画を見たり、エーリッヒフロムの「愛するということ」のまとめを読むなどして過ごす

やはりそんなに気分は良くなかったので、昼寝をした

本当は外に出た方が良かったかもしれない、と今思う

寝起きの気分もあまり変わらなかったので

夕方からは少し英語などを行う

夜は人と話したり、ウォーキングなどして、心穏やかに過ごせた

フロムの愛に関する文章をなぜ読んだか

自分にとって、なにが「癒し」に繋がるか考えていたからである

この憂鬱感や不全感は、愛する対象を失ったからではないか、という仮説が自分の中にあったからだ

なにが自分を活かすのか

どんな時間に自分が自由や価値を感じるか

それはまさに、愛するということと結びついていると思ったのだ

フロムは「愛するということは能動的であり、それ自体が決断である」ということを言っている

少しおかしな言い方だが、「自分を能動的にさせてくれるもの」と出会えたら、それは愛の対象を見つけた、ということになるのではないだろうか

能動と受動が入り混じった「確信」が愛なのだろうか

「出会う」というのは、まさにそれ自体が、自分が能動的なのか、受動的なのかわからない中間状態な気がしないだろうか?

そんなことを考えていたday

明日は外に出よう

雨らしいが外に出よう

皆さんもよく休まれますように

ではおやすみ

今日も良い夢を

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