没後60年ジャン・コクトー映画祭
ジャン・コクトー(1989〜1963)はもちろん多方面に傑出した才能を持つが、映画を見るのは今回初めての機会だ。初監督作の「詩人の血」(1932 年)から、第2作目の「美女と野獣」(1946 年)、そして「オルフェ」(1950 年)、さらにロベール・ブレッソンが監督したコクトー脚本の「ブローニュの森の貴婦人たち」(1944年)を加えた4本は興味深い取り合わせだ。
「詩人の血」は4つのエピソードからなる50分の映画だが、なかなか密度が濃い。全編に漂うほのかな官能性と、主人公の詩人(エンリケ・リベロ)と彫像(リー・ミラー)が織りなすある種のバカバカしさは、完全にシュルレアリスムのそれである。ところで詩人が描いたあのドローイングはコクトー自身のものなのか…。
アヴァン=ギャルド映画としてしばしば引き合いにだされ、コクトーも影響を受けたはずのルイス・ブニュエル(1900〜1983)の「アンダルシアの犬」(1929年)に言及するよりは、その後のブニュエルの作品を考えることで、逆にコクトーの、というかこのじだいのシュルレアリスム感覚を感じられるかもしれない。
いずれにしてもジャン・コクトーの映画が他の映画監督に与えた影響はとても大きいと、今回は改めて感じ入る機会ではあった。何しろ戦後間もない1949年、「美女と野獣」というファンタジーを最初に映画として世に出したがジャン・コクトーなのである。ウォルト・ディズニー製作の劇場アニメ版「美女と野獣」が公開されたのが1991年。もちろんコクトーのそれが下敷きである。そういえば、ディズニーアニメをめぐるジェンダーとシンデレラ幻想について、美術史家若桑みどりさんが女子学生に向けて語り、エールを送った『お姫様とジェンダー』では、この「美女と野獣」について触れられていたののか、いなかったのか…。
ともあれ、美しくも慎ましい末娘ベル(ジョゼット・デイ)と、野獣にされてしまった王子様をめぐる「おとぎ話」が基本的構造とはいえ、その王子にはコクトーの恋人のジャン・マレーが起用されている(もちろん野獣と王子の二役となる)。ところがベルの兄(こやつは相当の放蕩息子なのだ)の悪友でアヴナンという、なんだか冴えない男を演じているのも同じジャン・マレーだったりするので、開けてみれば、つまり王子の魔法が解けて野獣の正体が明かされると、もうそれはわけがわからん一人三役の変身物語である。美術と衣装のデザインを担当するクリスチャン・ベラールの仕事がただただ美しいという意味では、もちろん傑作ファンタジーではあるが。
一方でその後に撮られた「オルフェ」の方は、もちろんギリシャ神話のオルフェウス伝説であり、「決して後ろを振り返ってはならない」という、あの物語を翻案した現代劇となっている。ここでもコクトーお気に入りのジャン・マレーは詩人オルフェとして大活躍する。
「鏡」と「手袋」。もちろんシュルレアリスムのモチーフでもあり、映画「オルフェ」では、冥界の入口へと詩人を誘う装置として機能する。
「詩人の血」では、詩人が鏡の中の超現実世界へ飛び込むところから物語は展開したが、「美女と野獣」では、鏡は魔法の覗き窓(あるいはライブカメラのような装置)として、瀕死の野獣の姿をベルに伝達する役目を持つ。野獣がベルに手渡した手袋は、瞬間移動の装置である。その一方で「オルフェ」の手袋は、冥界への開口部である鏡の通行手形的な小道具としてそこにある。
詩人オルフェは、カーラジオから流れる冥界の暗号通信に惹かれ、また冥界の王女(マリア・カザレス)に対しても明らかに心を奪われてもいる。コクトーは、オルフェの妻のユーリディス(マリー・デア)に対しては世俗的な平凡な女としての地位しか与えておらず、映画は王女とオルフェの純愛を描いているかと思いきや、最後はオルフェは妻と元の鞘にもどりましたとさ…という条理も不条理もあったものじゃないオチに、呆気に取られたりもする。
さて、こうやって筋書きを記したところで、もはやそれ自体には殆ど意味がないことから考えて、やはり詩人ジャン・コクトーにとっては、物語の整合性よりも詩としての躍動の方を、映画の魅力と捉えているわけで、それが他の映画監督にもインパクトを与えたということだろう。映画の「楽しさ」。それが時代の賜物でもある。
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それから、ロベール・ブレッソン監督(1901~1999)は、年でいえばコクトーよりは10歳程若い世代に当たるが、長編第二作である「ブローニュの森の貴婦人たち」は、新しい映画の時代を予見させる。上流階級の貴婦人エレーヌに「オルフェ」では冥界の王女を演じたマリア・カザレスが、若いダンサーのアニエス役をエリナ・ラブルデットが演じており、息を呑む緊張感で台詞を監修したのがジャン・コクトーである。ただ、その後のブレッソンといえば、プロの俳優を使わない独自の映画スタイルを確立することになる。二人はその後袂を分つことになるにせよ、貴重な出会いであり、貴重な作品でもある。