WKW4K ウォン・カーウァイ4K 5作品
『ブエノスアイレス』(1997)、『天使の涙』(1995)、『花様年華』(2000)、『2046』(2004)、『恋する惑星』(1994)の5本の映画を見てきました。感想を綴ります。
0.
1997年7月、香港はイギリスから中国に返還された。中国は香港を特別行政区とし、独自の行政、立法、司法権を有し、中国本土では認められない言論・集会の自由や、通貨やパスポートの発行権を持ついわゆる一国二制度を設け、今後50年間その制度を維持することとした。
自分は1994から96年までロンドンに住み、その最後の年は同世代の香港人とフラットシェアしていた。イギリスで教育を受けた彼らにとっても、香港の返還は大きな負荷と選択を強いるものであり、一人はビジネス人としてロンドンに残り、もう一人はアーチストとして故郷香港に戻っていった。そういう当時の時代の空気を懐かしく思い返している。
2022年現在、その期限とされる2046年までの半分25年が経過したわけだが、その「自由」の約束はすでに危ういものとなっている。いや、そもそも私たちが受ける「自由」の制約は、香港だけに限ったことではないかもしれないが。一般的にウォン・カーウァイ監督は、映画に政治的な視点を織り込んでいないように見えるかもしれない。しかしこうしてリストアされた作品を見返してみれば、あのファッショナブルでかつ刹那的な映像美は、どこか重く私たちの心に覆いかぶさってくるものがある。
1. 『ブエノスアイレス』 1997年
クィア映画の先駆けといわれる『ブエノスアイレス』は、もちろんウィン(レスリー・チャン)とファイ(トニー・レオン)の恋愛と、その結末を描いた映画ではあるのだが、彼らの(香港から見て)地球の反対側にあるブエノスアイレスへの逃避行は、それは一方で超越的な「巨大な力」について、具体的には巨大な瀑布イグアスの滝を俯瞰することであり、またもう一方は、その「像」の代替としての安っぽい土産物の滝の絵柄、光と影を投影する幻灯の小さな世界を描き、その重なり合う部分を描いているといえるだろう。
映画のもうひとつの鍵は、ウィンが働くことになった中華料理店(地球のどこにでも華人社会が存在するのだ)で出会う「台湾人」の旅人チャン(チャン・チェン)の存在だ。ウィンを先輩と慕うチャンは、回収し埋葬すべきウィンの言葉(と言葉にならないそれ)をカセットテープに収め、南米最南端の岬まで運ぶ役割をする。それがウィンにとってファイとの決別であり、香港に戻り父親(的なもの)との関係を「やり直す」踏ん切りとなる。第二次大戦後、中国との関係に於いて異なる歴史を歩んだ二つの国の制度が無意識下で人を拘束することを考える。
2. 『花様年華』 2000年
一転して『花様年華』では、舞台は1962〜66年の香港となる。新聞記者のチャウ・モーワン(トニー・レオン)と商社で秘書をするスー・リー・チェン(マギー・チャン)は、偶然に同じアパートの隣どうしに引っ越してくる。
チャウとスーは、ふとしたことから彼らのパートナーどうしが不倫関係にあることに気づいてしまう。一方でチャウとスーは親密な時間を共有しつつも一線を越えること無く付き合っていたのだが、その逢瀬が他者の知るところとなり「関係」についての決断に迫られる。襟の高い中国服を着たスーがスローモーションで再生される。無言のカメラは右から左へあるいは左から右へ、外部と内部の境界を横断しその情景を淡く描写する。小説を執筆するチャウの「物語」の中を行き来をし、戯れにチャウが書いた「脚本」を演じては抑えきれない感情が溢れてしまうスーの姿。そのひとつひとつのカットは美しく、そして儚く、すれ違う二人の感情を描出していく。
1966年、チャウはカンボジアのアンコールワットで自らの記憶を封印し、「物語」に終止符を打つ。1966年といえば、中国で文化大革命が始まった年でもあり、カンボジアにもやはりその波が押し寄せた。不穏な時代はまた、チャウとスーそれぞれの決断の深層に静かに横たわっているとも見え、それはまたミレニアムの香港の喧騒と深部で繋がっていると言ってよいだろう。そしてその感覚はまた、4年後の2004年に公開される『2046』に引き継がれることとなる。
3. 『2046』 2004年
「2046」は基本的にホテルの部屋番号である。『花様年華』でチャウが小説を書くために借りたホテルの部屋であり、小説執筆の手伝いを口実に、スーとの逢瀬を演出する場であり、二人の姿が合わせ鏡越しに描き出される密室でもある。もちろんその「2046」という数字は、香港返還から50年後の2046年の意味も併せ持つだろう。永遠の愛を求め、「何も変わらない」未来である「2046」へと旅立った者の中で唯一ひとり現在へ「戻る」決断をしたタク(木村拓哉)の、日本語での語りが映画のプロローグである。
1966年、失意のチャウ・モウワン(トニー・レオン)は、赴任先のシンガポールから香港に戻ってくる。新聞記者は辞め、自らの刹那的な日々を官能小説として切り売りして暮らしを立てている。そしてチャウが住むホテルの隣室「2046」号室の住人、二人の魅力的な女性をめぐる物語が『2046』のメインテーマだ。
「2046」に越してきた高級娼婦のバイ・リン(チャン・ツィイー)は、程なくチャウと関係を持つようになる。チャウのことを愛し始めたリンはその場限りで精算される関係に耐えきれず、部屋を出て行ってしまう。次に「2046」号室に戻って来たのは、ホテルの支配人の娘ワン・ジンウェン(フェイ・ウォン)だ。「戻って来た」と書いたのには伏線があり、そしてジンウェンは父親が交際を反対するタクに思いを告げることができず香港と日本とで離れ離れになっている。そんな切ない表情のジンウェンを助けるべくチャウは彼女に手を差し伸べる。
映画は引きが少ないシネスコで撮影され、他のウォン・カーウァイ監督作品に比べ、動きもカットも穏やかである。横長の画面の人物像の配置に気が配られ、ネオン看板の隣で主人公たちが佇むホテルの屋上を望遠レンズで捉えらた映像に心を奪われる。
かつてのスーのように、ジンウェンはチャウの小説の執筆を手伝うようになる。お互いともに求め合う関係ではなく、秘密を共有する、ある意味で穏やかな共犯関係としてのジンウェンとチャウは、彼女とタクとの関係を彼女を別の形に昇華しSF仕立てに創作した小説『2046』を書き上げる。その「劇中劇」は、タクが永遠の国「2046」からの帰途で出会う添乗員WJW1967、「感情」を喪失した美しいアンドロイド(ジンウェン自身でありやはりフェイ・ウォンが演じている)が描かれる。
4. 『恋する惑星』 1994年
『恋する惑星』はウォン・カーウァイ監督の出世作であり、彼の映画の中でも一番人気の作品だと思う。作品は2部構成になっており、ひとつ目は4月1日に彼女に振られた警官223号のモウ(金城武)と、金髪にサングラスでレインコートという装いの謎の女(ブリジット・リン)との出会い、2つ目はテイクアウトの店(小食店)の新入りフェイ(フェイ・ウォン)と、やはり失恋で茫然自失の警官663号(トニー・レオン)の恋の行方を描いている。特に後半部分を占める、オーダーが通じない程の爆音でかけるフェイのお気に入り「夢のカリフォルニア」と、クランベリーズの「Dreams」の中国語カバーでフェイ・ウォン自身が歌う瑞々しい挿入曲「夢中人 」は、90年代香港の肌感覚を的確に代弁し、多くの若者を魅了したのだろうと思い返してみる。
2つの異なる物語をオムニバスと呼ぶには異論がある。異なる人生/異なる時間が気付かぬうちに交錯する香港という空間(それが極めて直感的であるにせよ)は、—モウの誕生日5月1日に賞味期限が切れるパイン缶30個は、また別の形で引き継がれることになるが—極めて香港ライクなテイクアウト店が2つの物語のハブとなり、闇の世界を駆け抜ける金髪の女と夢見る乙女のフェイが意図せずすれ違い、金髪のカツラを脱ぎ捨てた者の人生はまた、ボーイッシュな短髪のフェイの日常に引き継がれ(これも直感的な香港像と言えるだろう)、新たな可能性と希望が託されていたのだと、四半世紀を経た現在から見返せば、そう読み取ることもできようか。
663号の別れた彼女が店に預けた合鍵を使い、フェイ は不在の663号の部屋に忍び入り、ピンクのゴム手袋をはめて彼の部屋の掃除を始める。「夢のカリフォルニア」のCDをセットする。タオルを窓辺の手すりに干す。白昼の密やかな時間はフェイの日常となり、水槽に金魚を放ち、飛行機の模型を水槽に沈め、CAの元彼女が残していった制服を勝手に着込んでベッドの上で自撮りをする。冷静にメチャクチャなフェイの行為だが、こうしたウォン・カーウァイ監督の物語のコマの動かし方と人物の描写力は卓越していると言わざるを得ない。映画の方は常に「描かれていない」時間を、感情を、また搭乗券の行き先と有効期限とその再発行を担保し、その背景であるこの宙吊りの国、香港90年代の「空気」をいかに後世に残したかが、本来的にはこの映画の主題となるからだが。
5. 『天使の涙』 1995年
一方の『天使の涙』は、そんな『恋する惑星』の続編というよりは、合わせ鏡のような作品だといえよう。「殺し屋」(レオン・ライ)の激しいアクションと、サングラスに赤い口紅の「エージェント」の女(ミシェル・リー)とのクールな関係性の描写がこの映画の醍醐味ではあるのだが、こういう形の香港の「夜」のネオンを引き連れてきたのは、そもそも前作第1部の主人公モウ(金城武)であり、今回の『天使の涙』でもやはり同じ名前のモウという、口のきけない男を演じている。
モウはエージェントが根城とする重慶マンションの管理人の息子で、5歳の時に賞味期限切れのパイン缶を食べ過ぎて口がきけなくなった。もちろんこれは『恋する惑星』で、願掛けで集めた30個のパイン缶の「期限」の話と繋がっている。「どんなものにも期限がある」というのは、前作のモウの言葉だが、その言葉は『天使の涙』の殺し屋とエージェントのパートナー関係にも、殺し屋とオレンジの髪の女との刹那的な恋愛にも、殺し屋の仕事自体にもまた「期限」があることを明示する。
「殺し屋にも過去がある」という。仕事を終えた足で駆け込んだバスには小学校の同級生がいた。狭い街だ。同級生は彼を過去を持つ普通の人間と認識し、彼に合った保険を勧め、挙句の果てに「殺し屋」の彼に結婚式の招待状を手渡すのだ。もはや彼の「期限」は迫りつつある。一方で、殺し屋に恋心を抱いたエージェントは、彼の隠れ家に侵入し、ゴミを片付け、ベッドを整え、自らの身体をそこに横たえる。このあたりはやはり『恋する惑星』のフェイの鏡像だろうか。仕事のfaxを処分し留守電のテープをリセットする。
モウは、深夜に閉店後の屋台に入り込み、勝手に商品を売るという「遊戯」のような仕事(と言えるのか)をしていたのだが、振られた男のことで頭が一杯になっている女に恋をし、日本人の経営する居酒屋で働き始め、そこで手にしたビデオカメラで、嫌がる父親の姿を撮影するようになる。モウは滑稽な程に父親にくっつき回って、右から左からところかまわずハンディーカメラで撮影しまくるのだが、圧巻はフライパンでステーキを焼く父親を捉えた映像で、カメラにの先のモウに満面の笑顔を振り向ける父親の姿であった。実際は撮影監督のクリストファー・ドイルが撮ったのだろうか。心に強く響く、一瞬の劇中劇だ。父親との関係にも「期限」があったのだ。
「父親」との関係といえば『ブエノスアイレス』の結末でも扱われている。ファイと別れたウィンが香港に戻り、父親(的なもの)との関係をやり直す決意が示されるわけだが、モウの亡くなってしまった父親と彼自身の心地良い関係から(「ずっと父さんの子どもでいたかった」と語る場面がある)、どこか不安を抱えながらも先に進む、進まざるを得ない香港の返還前の状況と重なり合うところがあるだろう。エージェントの女もまたモウのバイクの後部シートに身体を預け、サングラスを外した身体をまた別のどこかに運ぶのだろうか。
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香港が中国に変換される「期限」とされる2046年。そして今年2022年7月、その半分の25年が経過したことになる。ウォン・カーウァイ監督の映画はまた、現在からみて意外な程に「日本」が登場する。[了]