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禅、無「本質」的分節で観ることのできる世界とは


これは、井筒俊彦の「意識と本質」の中で示されるていることである。無「本質」的分節とは、禅の世界観を学ぶときにつかわれる。

分節(Ⅰ)→無文節→分節(Ⅱ)

このとき、(Ⅰ)は「本質」的分節で、(Ⅱ)は無「本質」的文節である。彼のいう「本質」とは私たちの常識的世界を作り出しているもの、つまり、あるものを他の一切のものから区別して、まさにそのもののたらしめるものである。花を花として認知するときに、私たちは花を花たらしめる、「本質」を決定している。それが、本当にあるのか、ものを決定するのが「本質」であるなら、「本質」を決定するのは何なのかという問いには(Ⅰ)では答えない。
 さて、その分節(Ⅰ)を通って次に大乗仏教特有の徹底的な本質否定。本質虚妄説の段階に入る。ここでは、様々に分節された現実世界の中で事物に囲まれ、生きながら、それらの分節の存在中核にそれぞれのものたらしめる「本質」を認めないと説くものである。ものたらしめる「本質」がなくなったことによる、一切無機的な世界に転換、そして、虚無に落ちる。世界を虚構なる構造物として認識する。ここでは、神などの絶対者というものは認めず意味をなさない。では、現実に事物に触れているとどう考えても否定しえないことに関してはどうなのかという問いは、追及はしない。
 ということで、分節(Ⅲ)にはいいってくる。ここでは、「本質」的分節を通り、無文節の世界を通り、最終的に無「本質」的文節で世界を観じよ。の領域である。そこに確かにものがあるがない、「本質」はない。ものをものたらしめるなにかはない。ものがものとして目の前にありありと現象してくるのである。その過程を経て、井筒はこう語る。

【本質がもともと実在しない幻影のごときものであり、「本質に基いて個々別々の事物を個々別々の事物として現象させる存在分節が、従って、本当は妄想分別にすぎないと悟る時、つまり、経験界の事物がすべて本当は無「本質」なのだと悟る時、人は「向上」の道への第一歩を踏み出す。】

この向上道に邁進することはいったい何になるのであろうか。

     無文節
分節(Ⅰ)↗    ↘分節(Ⅱ)

それは、うえで示した通り、分節(Ⅰ)、無文節、分節(Ⅱ)の構造関係がこのように次元の行き来をしており、形而上的意味解釈をする無文節、形而下的意味解釈をする、分節(Ⅰ)(Ⅱ)の禅的修練道の道としての次元昇降を示す。そのため、無文節から分節(Ⅱ)に到る道程では向下道と呼ばれる。さて、では無「本質」分節の境地に達したとき禅者はどのような世界を観じ、現実世界を把握しているのだろうかを見ていきたいと思う。

まず、この禅者が体感する無とは、経験界で人が出合う個々の事物に「本質」がないということを理性的に理解することとは全然違うということを把握しておいていただきたい。もともと大乗仏教特有の因縁によって成立したものだから、それ自体には独立した実体性がないはずだ。無は次元上昇後した際の意識的作用をそのまま引き受けてきた通常の言語的のないでない意味を持つためである。


 分節(Ⅰ)、分節(Ⅱ)の理解をもう少し深めていく。先ほど示した通り、分節(Ⅰ)とは、常識での経験的世界において、ものをものたらしめる「本質」によってもの特有の同位を規定する。そこにおいて、花は花、山は山である。と、ものを分節し私たちの言語領域、また盲目的に認識している世界を作り出すのが分節(Ⅰ)である。もっと言うと花としてものを規定することによって、「本質」に縛られた存在であるということ。その他の「本質」の侵入を許さず、排除するのである。そのことによってのみ、それらのものは自らの存在、花であると主張する。つまり、「本質」は事物を固定し結晶化させるものである。井筒はこれを『存在者の存在不透明性』という言葉で表している。

それに対して、無文節の領域を通った分節(Ⅱ)はこれに反してあらゆる存在者が互いに透明である。そして透明でありながら、存在しているものに対して積極的であり、透明な水のごとし浸透をしていく。無文節的文節領域では、「本質」を認めないことによって、存在の不透明性を開放する。そのなかでもものは現象しているが、「本質」によるものの凝固点はない。そのためものともの、例えば、花と鳥は浸透しあい、おたがいに影響しあう現象の機微を感じ、花は花ではなく花のごとしと分節される。

花が花でありながらーあるいは、はなとして現象しながらーしかも、花であるのではなく花のごとし(道元)である。「・・・ごとし」は「本質」によって固定されないということだ。この花は存在的に透明な花であり、他の一切に対して自らを開いた花である。だが、分節(Ⅰ)では、花は一つのそれ自体で独立した、閉じられら単体だった。花はすべての他のものに対して固く自らを閉じていた。だが「本質」のない分節(Ⅱ)の世界に移されるとき、花は頑なに自己閉鎖を解き身を開く。

「本質」で固めてしまわない限り、分節はものを凝結させないのである。内部に凝結点を持たないものは四方八方に向って己れを開いて流動する。すべてが黄檗(おうばく)のいわゆる『粘綴(ねんてつ)無き一道の清流』(どこにも粘りつくところのない、さらっとした一道の清流)となって流れる。『粘綴なき』この存在分節の流れはものとものとを融合させる。華厳哲学では無「本質」的に分節された事物のこの存在融合を【事々無碍】という

意識と本質

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